麻薬で逮捕される人を見ると

もったいないな

と思います。

何かの研究で読んだのですが、まさに「脳内麻薬」という言葉どおり、人間は薬を使わずとも色んな形で快楽を生み出すことができると言われており

そしてその中でも、何の法的リスクもない健全な麻薬というのは「愛」だと思うのです。

この点に関しては、道徳教育や宗教の弊害があると思うのですが、愛というのは今の社会では「しなければならないもの」という風に「上から押し付けられる」ことによって多くの人の中で拒絶反応が生まれてしまっています。

しかし、本来、愛というのは人間にとって「単なる快楽」で

確か小学2年生のときだったと思うのですが、僕は小さな猫を拾ってきて密かに育てていたのですが、最初は「シャー!」とか歯をむき出しにして威嚇してきたのですが、毎日餌をあげていたらその子猫がのそのそと僕の膝の上に乗ってゴロゴロと喉を鳴らし始めたときの快感はとんでもなくて、
というか、僕、そのとき勃起したんですよね。
だから、それ以来、学校の先生や親が言う愛というものとは違った解釈をするようになりました。

だから、今も「麻薬」も「セックス」も「愛」も脳みその同じような場所で「これは気持ちいいもんだ」と判断してるんじゃないかなという思いがあります。

だから、老人に席を譲ったり、友達を助けるという、一般的に「善いことをする」行為は

「ヤクを打つ」に掛けて「愛を打つ」と表現したら良いんじゃないかと思います。

そして、僕の中には

いつかこんな愛を打ってみたい

と憧れ続けてきた「上物」がありました。

それが



●シャウト愛



です。

そもそも人間は「叫ぶ」という行為に対して非常に大きな快感を感じる生物ですが

さらに、そこに「愛」を組み合わせたらそれは相当な快感になるんじゃないかと思い、何度も空想しては「ええなぁ」と恍惚感に浸ってきました。

ちなみに、この「シャウト愛」を具体的に言うと

飛行機の中で人が倒れたときにFAの人が


「この中でお医者様はいらっしゃいますかぁ!」


とシャウトするアレであり、アレを叫んでいるときのFAの人は、もちろん緊張や不安を感じているとは思いますが後から振り返って「うわあ、あんとき私、やったったわ」とすげー気持ちよくなり、それをオカズにして一人Hできるレベルの興奮だと思うのです。

そんなことを考えながら日々生きていたのですが、


なんと、今日、


僕はついに「シャウト愛を打つ」機会に恵まれたのでした。


チャンス、というのは常に、自分の思いもよらなかった方向から現れるものです。


僕としても「シャウト愛」を行うのは、「機内」「山や海」「銀行」などを想像していたのですが


現実にシャウト愛を打つことができたのは、



●立ち食い蕎麦屋



でした。


僕はつい先ほど

立ち食い蕎麦屋に入って食券を買おうと機械の前に立ったのですが

食券が出てくる場所に小銭が転がっていたのです。


580円くらいだったと思います。


そのお金を見て僕は即座に、前のお客さんがお釣りを取り忘れそのままにしておいたから

機械が自動的にお釣りを外に吐き出したということに気づきました。

ただ、このとき僕は、これが「シャウト愛」に発展するとは思っておらず、

お釣りを店員に渡すという「お金落ちてましたよ愛」になるのかなと思いました。

だがそのとき


「待て、ケイヤ」


と心の中で声がしたのです。


耳を澄ますと、その声は僕の心の奥に居る、パンクロッカー風の、腕に注射の跡が何本もある、観音菩薩でした。

菩薩はマイクに向かって叫びました。。


「イフ、機転の利かない店員だったら、その場でお釣りを渡さないかもしれないゼェェェ!」


(た、確かに!)


僕は菩薩の言葉にうなずきました。

もし、僕がお釣りを渡した店員がそのままカウンターに置いたままにしたら、そのお釣りが持ち主のところに戻ることはないでしょう。後になって「お釣りを取り忘れたんですけど……」と申し出るお客さんがいるとは思えないのえす。

そこで僕は店員に渡すのではなく、直接店内のお客さんに聞いて回ってはどうかと考えました。

しかし、また、菩薩が叫んだのです。


「お客さんは、ウソをつくかもしれないゼェェェ!」


(な、なるほど)


僕は菩薩の言葉に膝を叩きました。

お釣りを取り忘れた人は、蕎麦屋のカウンターの前で蕎麦ができあがるのを待っている人の中にいると思われますが
ただ、僕が「あなた、お釣り忘れてませんか?」と聞いて「あ、ああ、すみません」と受け取られても、実際にその人かどうかは分かりません。というか、一人一人に「あなたのお釣りじゃないですか?」と聞くと「もしかしたら自分かも」と思って、誤って受け取ってしまう人が出るんじゃないかと思ったのです。

菩薩は、エレキギターをかき鳴らしながら叫びました。


「叫ぶんだゼェェェェ! この店内で、ありったけの声で、愛を叫ぶんだゼェェェェェイエェェェェェイ!」


僕の体が震えだしました。

武者震いでした。

夢にまで見た、シャウト愛を、ついに――打つときが――来たのです。


そして、僕は―――


立ち食い蕎麦屋の狭い店内で、声高に叫びました。




「だ、誰か、お釣り忘れてませんかぁ!」





すると、

行列の後ろから2番目にいた女性が


「あ……」


と言って前に進み出ました。

その雰囲気から

(間違いなくこの人だ!)

と確信した僕は、その女性にお釣りを手渡したのです。

そのとき感じた快感。

それはそれは相当なものでした。

この状況でシャウトできる者が日本に何人いるだろうか。

仮に、救急救命士の資格を持っている人でも、ここでのシャウトは相当ハードルが高いはずだ。


しかし、俺はやった。


そのハードルを乗り越えて、あるべき場所に小銭を戻すという愛を、打ったのだ!


押し寄せる快感の波に身をゆだねながら、

僕は蕎麦のカウンターの前にある、食券置き場に「とろろ蕎麦」と「大盛り」券をカウンターに差し出そうとしたときでした。


突然、列に並んでいた60歳ぐらいのじいさんが叫んだのです。




「並んどるぞ!」




一瞬、何が起きたか分かりませんでした。

ただ、僕が声のする方に目を向けると、

そのおじいさんは完全に僕を睨みつけているのです。

(一体どういうことだ――?)

混乱しながらも、状況を観察してみたところ、僕はなぜ自分が怒鳴られたかが分かりました。


本来であれば、

この立ち食い蕎麦屋のシステムは、

まず最初にカウンターに食券を置き、それから列に並んで自分の蕎麦ができるのを待つ

というものです。

しかし、時間がちょうど昼時だったので、カウンターの上に食券が置き切れなくなっており、多くの人は手に食券を持って並んでいる状態なのでした。

だから、直接カウンターに食券を置きにいった僕は、そのおじいさんから見たら「横入り」に見えたのであり、

つまり、完全に僕が悪いのですが、




僕はこのじじいにめっちゃ腹が立ったんですよ。

もう、ほんとこいつブン殴ったろかっていうくらい腹が立ったんですよね。


え? お前、さっきの俺のシャウト聞いてなかった?

俺は、小銭をネコババすることだってできたのにもかかわらず、それをあえて「シャウト」という勇気のいる手段を使って持ち主のところに返した英雄だぜ?

その英雄に向かって何をダメ出ししてくれてんのじゃ! 

しかも公衆の面前で!

「あらら、この人、さっきカッコつけて何か叫んでたけど、ダメ出しされちゃってんじゃないのw」ってみんなから思われてるだろうが、ボケェ!



――そんなことを考え怒りに震えながら、僕は仕方なく行列の最後尾に並びました。


しかし、そのとき


僕は、あることに気づいたのです。



これって、もしかして―――





愛の『副作用』じゃね?





シャウト愛を打ったことによって、僕の中では「素晴らしい人間である」という誇りが高まった。


そして、高まった誇りは、じじいのダメ出しによって、通常よりも落ちる落差が大きくなったというわけです。



光ある場所に、闇あり―――。




「やっぱり、麻薬と愛は、同じものなのかもしれないな……」


そんなことを考えながら、僕はとろろ蕎麦をすすったのでした。