昨日、浅草の三社祭に行ってきたのですが、

日本の「祭り」の持つエネルギーのすごさに感動しているとき、ふと今の日本に必要なイベントを思いつきました。

それは

「三社祭的アニメ祭り」

です。


その内容を一言で言えば

まどかマギカのフィギュアが乗った神輿や、神輿に見立てたガンダムのホワイトベースやワンピースのゴーイングメリー号を、オタクの人たちが、オタ芸的な動きを繰り出しながら

「ワッショイ!ワッショイ!(この掛け声も違う言葉になるかもしれません)」

と叫んで神輿をかつぐという、日本古来の伝統の系譜の中にアニメ要素をふんだんに盛り込んだお祭りを開くというものです。

もちろんそこにはお祭りの基本である「神」とアニメの関係性を考える必要があり、ただ騒ぐだけではなく、なぜそのお祭りを開いているのかという詳細は考えられるべきですが

何より重要なのは、オタクではない一般人を――可能であれば50代以上の高齢者を巻き込んだ「日本の伝統」を作るということです。

そういう意味では、過去のアニメ(特に手塚作品が良いと思うのですが)「鉄腕アトム」や「火の鳥」をベースにした神輿もあった方がいいと思います。

それができれば、閉塞感のある日本にとってうれしいニュースになるし、観光客もたくさん来るし、何よりすごく楽しいと思います。

そんなことを考えながら三社祭を見ていたのですが、この「アニメ祭り」を実現する上で最大の問題になるのは、

「オタク」の皆さんのメンタリティになるのではないかと思いました。

僕自身も、幕張で開かれた同人やコスプレの集まりに参加してみたことがあるのですが、そのとき思ったのは

オタクの人たちというのは、極めて礼儀正しいのですが(人気漫画を買うために、ピシッと3列に一糸乱れぬ隊列を組み、スタッフの誘導に従っていたのは感動しました)

同時に、

こういっては本当に失礼なのですが、

「追いやられた側」の人間であるということでした。

僕自身も、中学高校の6年間をゲームセンターと漫画喫茶に捧げたので分かるのですが、

青春をゲーム・漫画に捧げる人は、純粋にそのジャンルが好きだからそこにいるというわけではなく、

何らかの形でメインストリームから外れた、というケースがほとんどです。

というより、文化的なものすべてにそういった側面があるのですが

スノボのオリンピック代表の成田童夢などの例外はありながらも、

小学校の頃から、運動ができたりケンカが強くて女の子にもモテた人がオタクになるというケースは稀です。

なぜなら、ゲームもマンガも、

「今の自分ではない、何者かになれる」

をテーマとしており

根底にあるのは「弱者救済」だからです。

だからメインの消費者は、心の中に強い「弱さ」を持った者たちです。


対して、三社祭りを仕切っている人たちはどういう人か。

これは「強者」です。

小学校のとき、運動ができて、ケンカが強かった連中が、祭りを主宰し、仕切っています。

実際、三社祭りを見たことがある人なら分かると思いますが、神輿を担いでいる人たちは、まず単純に「怖い」です。

観光客たちに対して有無を言わせない威厳があります。

だからこそ、あれほど巨大な祭りを成立させることができているのでしょう。


対して、強者ではないオタクの人が主催する現状の祭りは、「閉じられた世界」で開かれる同好会的な集まりにとどまってしまうことが多いと思います。


しかし、それが残念で残念でなりません。


たしかにお祭りは「興行」であり、多くのトラブルが発生するでしょう。事故やケンカはもちろんのこと、暴力団がらみの事件も発生するでしょう。

でも、

真に漫画やアニメのキャラクターを愛しているのなら、

コスプレ衣装を身をまとい外見を真似るるだけでなく

そのハートを、勇気こそを、自分と同一化させるべきです。


怖いからという理由で、


アムロ・レイが、

孫悟空が、

モンキー・D・ルフィが


暴力団に屈するわけにはいかないのです。



この「アニメ祭り」の成功には、現実逃避としての機能を果たしていた漫画が、読者に対して、現実の社会の真ん中に攻め戻る勇気を与える意味があると思います。


多くの「強いオタク」が立ち上がり、


クールジャパンではなく、ヒートジャパンが、世界を席巻する日が来ることを心から願っています。