第六話 涙雨


(5)

 しばらく黙っていた男が、俺にではなく自分に言い聞かせるようにしてぼそっと呟いた。

「俺は……どうすりゃいいんだ」
「さあ。それはあんたにしか決められないでしょ。少なくとも、俺が言えることはなにもありません。人様に意見できるほど立派な生き方はしていませんから」

 どうすりゃいいんだってのは、最初に言ってほしかったな。そうすれば、この男にしても陽花にしても、もう少しましで違った生き方になっただろうに。だが、時はもう巻き戻せない。俺たちは『今』をベースにどうするかを考えないとならないんだ。

「そうだなあ。あんたが会いたいと言っても陽花は絶対会わないし、会っても無視されるだけです。あんた自身が一番わかってると思いますけど」
「ああ」

 この男が陽花を女性体験を積むためだけの踏み台に使ったように、陽花もこの男を野原から脱出するための踏み台にした。踏み台は単なる道具であって、そいつが口を聞いたり動いたりってのはあり得ないんだよ。変な話だが、陽花のこれまでの男遍歴の中にこの男はカウントされてないように思う。

「もう一度言いますが、俺らは自分自身の生活をなんとかするだけで精一杯。恨むことはありませんが、関わる気力もないんです。そっとしといてください」
「……」

 おっと。一つだけ忠告しておこう。

「それとね」
「ああ」
「あんたの娘、有美ちゃんは、ぼけっぱあな俺や陽花と違ってとんでもない猛獣です。気性が荒くて激しい。闘争こそ我が人生みたいなところがあるから、冗談抜きで刃傷沙汰になりかねません」
「……」
「有美ちゃんにアクセスしたら、あんたも含めて関係者全員どつぼる恐れがあるんです。今は、あんたを過去の人にできる。俺も含めて誰のプラスにもならない代わりにマイナスにもならないんです。でも、あんたが有美ちゃんにちょっかいを出したら誰にとってもマイナスにしかなりません」
「う」

 男の首がくたっと折れた。陽花に相手にされないことは自覚しているだろう。最初からまともにコミュニケートできていないはずだから。ただ直接関わりがなかった娘なら……そういう儚い望みみたいなものがあったのかもな。そらあ、絶対に無理だよ。関係者の中で唯一強い恨みの感情が存在しているとすれば、有美ちゃんの父親に対する恨みだからな。
 降りしきる雨の合間に恨み節をねじ込む。この男に対してじゃなく、自力ではどうにもならない運命への恨み節だ。

「なんとかなっている今は、どんどん取り上げられてしまう。変わっちゃうんです。どんなに変えたくないと思っていてもね。そらあ、あんただけじゃない。誰でも同じだ」
「そうか?」
「そうですよ。俺の父親は一昨年病死。妻も同じ年に急死した。お袋は認知症を患って施設に入ってる。陽花は有美ちゃんの不倫騒動に巻き込まれて精神を病み、引きこもり中。有美ちゃんも子供抱えてカレシの元妻と丁々発止の闘争中だけど、旗色は悪い。俺の子供らは揃って厚顔無恥で、俺は頭が痛い」
「……」
「あんたは、そういうのを何も抱えていないでしょう? 自分の始末だけで済むじゃないですか」

 なぜ俺だけがこんな目に。そう思っているなら、これから先も何も変わらないよ。誰もが鼻先に変化を突きつけられ、その腐臭に顔をしかめながら、やっとこさっとこゴミ処理してる。最後は自分自身がゴミになっちまうのにさ。
 ゴミ扱いされたくないなら。変化に引きずられてゴミ箱に落ちたくないなら。必死に足掻くしかないんだ。ああ、こいつはゴミじゃないんだと思ってもらえるくらいにはね。

 足掻く……か。この野原の不変にも、そういう色が見えるんだよな。必ずしも、不変を軽々こなしてるわけじゃないんだ。
 野原の主がもしいるのなら。そいつは決してスマートなやつじゃない。俺や陽花、そしてこの男と大して変わらない不器用なやつかもな。だから変化に対する抵抗のほころびが、今日のような雨の日に違和感としてじわりと浮き上がってくるんだろう。

 親父にしても穂坂さんにしても、変化に抗う野原への憧憬はずっと失っていなかったと思う。だが、年老いてからは野原のあまりの頑なさにいささか辟易していたんじゃないだろうか。不変を目指す気持ちはよく理解できるけれど、そこまで強情を張る意味があるのかと。
 でも俺は思うんだよ。親父や穂坂さんは柔軟だった。自我の芯を折ることはなかったにしても、ライフスタイルの調整はうまかったんだ。俺や陽花はそこが親父たちのようにはうまくできない。だから、野原が時に癇癪を起こすようなアクションを示すとほっとするんだよ。ああ、こいつも今苦労してるんだろうなってね。

「さて。俺はそろそろ引き上げます。ここにとどまるのはご勘弁くださいね」
「……ああ」
「今、警察を呼びますので」
「なぜだ?」
「タクシーの代わりですよ。パトカーならタダで乗れます。それに、家出人保護も警察の仕事ですし」

 男が、じわっと苦笑した。

「あんた、変わってるな」
「そうですか? この野原の方がずっと変わってます」
「ふん?」
「俺も陽花も、ガキの頃にここで遊んでます。それから五十年近く経ってるのに、ここはずっと野原のまま。だあれも世話も管理もしていないのに、俺らがガキの頃のままなんですよ」
「そんなこと、ありうるのか?」
「あるから言ってます」

 雨で煙る野原を凝視した男にではなく、不機嫌そうな野原に向かって言い足す。本当に罪作りなやつだよ。

「だから陽花が言ったんでしょう。ここから出られないと」

 永遠の野原は父親の庇護の象徴というだけじゃない。子供というだけで安穏としていられたあの頃自体が野原だったんだよ。陽花の場合、出られないことは嘆きであると同時に安心でもあった。いつまでも野原にいられることを、心のどこかで期待していたんだ。
 だが。俺も陽花も野原からはとっくに追い出されている。俺らは変化してしまったんだよ。野原に嫌がられるくらいにね。

◇ ◇ ◇

 サイレンを鳴らさずパトカーが来て、男を収容して走り去った。結局最後まで見通しの利かなかった野原を横目で見ながら、ぶつくさこぼす。

「安心しろ。雨の日には二度と来ない。俺は涙雨が苦手なんだよ」


【第六話 涙雨 了】









A Walk In The Rain by Michael Franks


《 ぽ ち 》
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