第六話 涙雨


(4)

 男は、俯いたまましばらく口を開かなかった。髪や髭に溜まっていた雨滴が、まるで涙のように一斉に男の足元に降り注ぐ。俺は男が何か言い出すまで黙って待つことにする。
 陽花とのごたごたがあったあとで、この男に何があったのかはだいだい見当が付く。無責任でだらしないのは、女に対してだけでなく万事に共通だったのだろう。陽花との一件で親に愛想を尽かされたと見た。陽花を使い捨てにしたのはいいが、自分も使い捨てられるという想像力は働かなかったのだろうか。

 ロープを両手で握ったまま野原を見回している間に、少しずつ雨が強くなってきた。中を巡視した時より、見通しが利かなくなっている。先ほどは霧雨のベールだったが、それがすだれに変わった。さーという低いノイズにぱらぱらと衝突音が混じる。風は強くないが、行き場を失って舞っているようだ。逃げ惑っている雨筋が、ゆらゆらと寄る辺を探している。

「俺を……恨んでないのか」

 雨音に混じって、男の低い声が聞こえた。

「恨む? 誰が誰を、ですか?」
「……」
「俺は陽花の兄貴だけど、陽花とは違う大学だったし、一浪してたんで新入生という立場は同じ。正直、陽花のことをかまってる暇なんかなかった。新しい生活に馴染むことに必死で、あんたと陽花とのごたごたには一切絡んでないんです。俺は鈍くさいんでね」

 恨まれた方が気が済むんだろうか。何を今さらという気もするが。

「もしあんたが陽花を強姦したとかだまくらかしたとかなら、そらあ話は別だ。でも俺に言わせてもらえば、世間知らずの坊ちゃん嬢ちゃんが避妊なしでにゃんにゃんしちゃって大失敗ってのはママゴトそのもの。呆れて物が言えない。恨む以前ですよ」
「……ああ」
「しかも、後始末もサイアク。あんたはぶるって逃げ、陽花は何もできないくせに全部背負い込んだ。うちの親もあんたの親も頭を抱えたでしょ。同情も援助もしようがないからね。自分のしでかしたことなんだから自分で責任を取れと言うしかないじゃないですか。それで誰を恨めと?」

 男が再びだんまりモードに入る。

「俺はあんたがこれまでどうやって生きてきたか知らないし、陽花のことも断片的にしかわからないです。実質、あんたとそう変わらない生き方だと思いますけど」
「どういう……意味だ」
「いつまでも地に足が着かない。ふらふらしっぱなしで、危なっかしい。違いますか?」

 反論しようがないだろう。その体たらくなんだから。

「俺も人のことは言えないですけどね」
「どういう意味だ」
「大学のどんけっつでなんとか卒業はしたものの、就職した会社を半年足らずでクビになったんです。使えんて言われて。実際、俺もこらあかんと思ったし」
「……」
「だけど、もう妻がいたからね。人生、もういいやってぶん投げるわけにはいかなかった。あんたとの違いは、たぶんそこだけですよ」

 どうしても口調が棘だらけになる。陽花とのごたごたがあったから人生台無しになった? 違うよ。あんたが、自分から人生を放り捨てただけだ。

「はっ。恨む? 恨んで給料が出るなら喜んで恨みますよ。でも、俺も陽花も誰かを恨んでる暇なんかこれっぽっちもなかった。子供を抱えて生きていかないとなんないからね」

 普通は、生きるためのばたばたをこなしてる間に少しずつ足が現実に届くんだろう。鈍くさい俺がそうだったように。だが、三つ子の魂百までってことわざ通りで、どうしても持って生まれた気質が地面に届こうとしている足を引っ張る。この男も陽花も、最初のやっちゃったからあまり進化していない。それだけだと思う。

「それより」
「ああ」
「なんでここに来たんですか? ここにはあんたの欲しいものなんか何もないはずだけど」
「……」

 諦めたように顔を上げた男が、疲れた表情で野原を見渡した。

「今は新宿で暮らしてるんだが、もう東京を出たいんだ。やさを移す前に、ここを見ておきたかった」
「ほう? 陽花が何か言ったのかな」
「あいつは……言ってたよ。野原から出たいってね」
「ああ、そういうことか」
「……。あんたには意味がわかるのか?」
「なんとなくですけどね」

 握っていたロープを力任せに揺らした。含んだ雨を抱えきれなくなっていたロープは、わずかな振動でも涙を吐き出す。ばたばたばたっ!

「俺の親父は放任型でね。指図はしないが手助けもしない。自分の人生だから自分の好きなようにやれ。それが口癖でした」
「へえー」
「鷹揚なのは、俺らが分別ついてからならありがたいんですよ。だけど、ガキのうちから好きにやれじゃあ困る」
「どうしてだ?」
「これはいいこれはダメっていうガイドをちゃんと示してくれないと、不安だからです。そんなの、子供に決められるわけないでしょ」
「……」
「だから俺はダルになっちまったし、陽花は親父っていう野原から出るのを諦めちまった。わたしが何を言ってもやっても『自分で決めたのなら、それでいい』としか言わないんだろう。しょうがないってね」
「ネグレクトか?」

 違うんだよなあ。それこそ、俺らは親父っていう広大な野原に放牧されてたんだよ。

「いやあ、家族サービスは欠かさなかったし、話もよくしました。いい親父だったと思います。ただ、底が見えなかったんですよ。親を怒らせるってことが、俺にも陽花にもできなかった。怖いからじゃない。本当に怒ってくれないんです」
「……変わってるな」
「でしょうね。お袋は物静かだったから、生活態度とかで小言を言われることは多かったけど激怒してる姿は見たことがない。あんたなら、そんな親にどうやってたてつきます?」
「……」

 親父の強い警告をつらっと無視したこと。あれは、陽花が野原を自力で出るための通過儀礼だったのかもしれない。手段があまりに稚拙で、結果が最悪になっただけだ。ある意味、この男は陽花の怨念に巻き込まれてしまった犠牲者だとも言える。
 もちろん、そんな俺たちの事情なんざ男は何も知らなかったんだ。陽花の抱えていた背景が男のやらかしの免罪符になるかと聞かれれば、ノーだと言わざるを得ない。








A Rainy Day In Monterey by Joe Sample


《 ぽ ち 》
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