第六話 涙雨


(3)

 忌憚なく言わせてもらえば、俺は浮浪者……ホームレスが嫌いだ。不潔だとか汚いとかだらしないとか、そういう生理的な嫌悪感ではない。社会の端っこにぎりぎりしがみついて生きてきた俺にとって、彼らは『とうとう社会についていけなくなった』自分自身の姿なのだ。一種の同族嫌悪に近いかもしれない。
 もともと怠け者の俺は、生きるための努力をすぐさぼりたくなる。今だってダルな気質はちっとも変わっていないんだ。努力を怠れば怠るほど、さぼったツケは際限なく膨れ上がっていく。自分を向上させるためでなく、ただツケを支払うための努力なんざ不毛以外の何ものでもないが、その努力すら放棄した時点で俺は間違いなく全てを失うだろう。
 社会的義務の放棄と引き換えに急かされない自由が得られるのなら、ホームレスとしての生き方だってありなのかもしれない。だが、死にたくなければ食わないとならない。そのための努力は、俺にとって社会的義務を果たす以上に過酷、かつ壮絶になるだろう。俺が努力を放棄したら、ホームレスにすらなれないんだ。

 うんざりしながら、立ち尽くしているやつに一歩一歩近づく。視界が雨に邪魔されないところまで距離を詰めて、初めてそいつが男であることがわかった。
 くたびれきったグレイの冬物コート。汚れてその色になったのか元からその色なのか、判別できない。冬コートは初夏にまるっきりそぐわないが、厳寒期をしのぐためにどうしても必要なのだろう。裾が擦り切れてよれよれの紺の作業ズボン、煮締まって泥だらけのスニーカー。見える着衣はそれだけだ。
 伸び放題の髪は汚い灰色の筋となって方々に流れ、乾いていれば膨らむはずの髭も濡れてべたりと顔に張り付いている。雨に当たっていなければ、膨らんだ髪と髭で顔が少し膨らむのだろう。だが、今は痩せこけた頬と突き出した頬骨が痛々しい。目は深く落ち窪み、唇はひび割れ、口は半開きになっている。視線は虚空のどこかに据えられたままぴくりともしない。
 できれば見なかったことにしたかったな。

「そうはいかないか……」

 コミュニケーションが取れるかどうかわからないが、確かめないことには次の対応を考えられない。俺は用心深く男に近づいていった。
 雨音が俺の足音をかき消していたのか、男にそもそも外界への興味がなかったのか、それはわからない。宙に据えられた男の視線が俺に向けられることはなかった。
 それにしても……。思わず首を傾げてしまう。なぜこんなところにまで浮浪者が来る? ここは住宅街てっぺんの何もない野原だ。身を隠すスペースも、漁れるゴミも、買い物のできる店も何一つない。得られるものが何一つない。吹きさらし、雨ざらしで、ただ消耗するだけじゃないか。

 男の表情を確かめながら近づいていく間に、なぜか既視感を覚えた。誓って言うが。俺はこの男を知らない。会ったこともないはずだ。それなのに、なぜこの男を前から知っていたように感じるのだろう。
 鈍臭い俺は人の顔や名前を覚えるのがとても苦手だ。よほど印象のくっきりした人物でない限り記憶に残らないし、意識して残すこともない。その俺が既視感を覚えるということは、相当の回数、しかも印象に残る形で会っていないとならないはずだが。何度記憶をひっくり返してみても、思い出せない。

「うーん」

 男との距離が十メートルほどにまで縮まった時、男が初めて俺の方を向いた。当然、第一声は文句になる。

「どちらさまですか?」
「……」

 俺の方を向いたものの、男は半開きだった口を閉ざしただけで何の反応も示さない。こりゃあ、会話は無理そうだな。警察に通報しないとだめかもしれない。

「ここはうちの私有地なので、勝手に入り込まれるのは困ります」

 無反応かと思ったが、ずっと黙っていた男の口が少しだけ開いた。

「私有地? 俺は柵の中に入ってないぞ」

 ほう? 屁理屈は言うんだな。むっとする以前に、会話が出来そうな気配を感じて安堵する。

「この辺り。住宅が建っていないところは、ほとんどがうちの所有地です。牧柵の中だけじゃないんですよ」
「金持ちなんだな」

 皮肉交じりの低い声だ。暴力的なニュアンスは感じないが、ひねきった人物であることは間違いなさそうだ。単なる人嫌いとか世捨て人とか、そういう類ではないな。

「金なんざないですよ。普通の安サラリーマンだから。この野原だって資産価値はほぼゼロです」
「そんなところをなぜ持ってるんだ。売ればいいだろうが」
「電気も水道も通ってないただののっぱらを、あんたなら喜んで買いますか?」
「……」

 近くのロープを平手でぴしゃっと叩く。濡れたロープから垂れ下がっていた雨滴が一斉に飛び散った。

「売れないから残ってる。決まってるじゃないですか」
「……そうだな」

 まだ抗弁すると思っていた男は、あっさり口をつぐんだ。もう少し近づき、改めて容貌を確かめる。年回りは俺と同じぐらいだろうか。老けては見えるものの、体型が老人のそれではない。
 そして、顔をもう一度しげしげと検分して、ようやく感じ続けていた既視感の出どころがわかった。

「もしかして、と思いますが。宇沢さんですか?」

 中途半端に上げられていた視線がすとんと足元に落ちた。そして……俺の見立ては肯定された。

「ああ」








That Rainy Day by Wendy Marcini


《 ぽ ち 》
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