《ショートショート 1471》
『断片』
「サカさん、なんでにやにやしてるんですか?」
「ひっひっひ」
サカさんこと、坂上さんはとても厄介な利用者さんだ。もう八十後半で足腰がだいぶ弱り、自力での立ち居振る舞いが困難になりつつある。通いで世話に来ていた娘さんによる介助が厳しくなって、週二でデイケアに来ているんだけど。このおじいさん、とにかく言うことがころころ変わるんだ。
認知に障害があるわけじゃなく、短期記憶やロジックは明晰。でも、語られることのどれが真実で、どれが嘘かがちっともわからない。根っからのほら吹きとか冗談好きとか、そういうわかりやすい虚実ではないから、まともに話を聞くとひどい目に遭うことがある。
スケベでも暴力的でもないのに女性ケアスタッフからひどく敬遠されているのは、そのせいだ。ボケてるっていうのがわかってるなら聞き流すんだけど、まともだと……ねえ。スタッフが揃って辟易している。もっとも、当のサカさんはどこ吹く風。今日もあることないこと織り交ぜて、楽しそうに我々に話を振る。
で、今日の獲物は僕になりそうだ。やれやれ……。
にやにやしながらサカさんが見比べていたのは二葉の写真だった。大昔の、ではない。出来立てほやほやという感じの鮮やかな写真だ。てか、草? サカさんにガーデニングとか自然観察とか、そんな趣味あったっけ。
僕が写真を覗き込むと、サカさんから写真を手渡された。
「俺の遺影だよ」
「またまたあ。心霊写真とか言わないでしょうね」
「写ってるそのままさ」
冗談なんだかまじめなんだかわからない。リアクションに困ってしまう。
「まあ、じっくり見てくれ」
まばらに草が生えている写真なんだけど、見事に対照的だ。片方は乾いて地面がひび割れている。
もう一方は、水田のように草が水に浸かっている。
「片方は、アフリカかどっかですか?」
「俺がアフリカくんだりまで行けると思うか?」
「……無理ですね」
サカさんは車椅子から手を伸ばして二葉の写真を交互に指差し、改めてにやりと笑った。
「そらあ、うちのすぐ側の空き地さ。古い市営住宅を潰して、そこに道路を通すらしい」
「同じ場所なのに水浸しと乾いてひび割れしてるってのは、相当地面がでこぼこってことなんですか?」
「いいやあ、ブル入れてきれいにのして、ローラーまでかけてる。真っ平らだ」
混乱してしまう。まあた、サカさんのほんとだかうそだかわからない話にまんまと乗せられたかなあ。どう答えたものか四苦八苦していたら、にやにや笑いをすっと引っ込めたサカさんが、手を膝下に戻した。
「そいつは全く同じ場所さ。違うのは撮った時間だけだ」
「ええっ?」
確かに、生えている草の様子は似ていなくもない。でも、状況が違いすぎるだろ。
「ついでに言っとくと。水浸しのやつはひび割れのやつの三日後。何日も離れてない」
「信じられないですけど」
「別に信じなくってもいいけど、実際にそうなんだ」
「……」
誰に言うともなく、サカさんが淡々と話す。
「猛暑だから乾いてて、ずっと雨降りだから水浸しってこともない。どっちも撮った日は薄曇り。前の日が晴れてたか雨だったかの違いしかないんだ」
「まるっきり変わっちゃうんですね」
「水はけが悪いんだろ。下に水がしみにくいから、溜まった水がどっかにすぐ流れちまう。で、乾いたらぱりっぱりさ」
きょろっと視線を上げたサカさんが、写真ではなく僕の目をじっと見た。な、なんだあ?
「あんた、記憶ってのがずっと続いていると思うかい?」
いきなり話が飛んだ。思考が追いつかない。
「今生きてるんだから、俺らは連続した時の中にまだ置かれてる。そいつは事実さ。だけど記憶は人造物だよ。必ずしも事実の写しじゃない。覚えるか覚えないかもそうだが、覚えるにしても感情で脚色される。ほんのわずかな断片しか残らないのが記憶ってもんだ」
サカさんが手を伸ばしてきたから、写真を返す。視線を落として改めて写真を見比べたサカさんは、皺だらけの節くれた指で紙片をぽんぽんと叩いた。
「それなのに、俺らは脚色だらけの切れっ端からなんとかして大元を引っ張り出そうとするんだよ。そんなのは最初っから無理だし、無駄だ」
◇ ◇ ◇
サカさんは、僕と話をしたあとからほとんど口を利かなくなった。職員とのコミュニケーションが全く取れなくなったためにデイケアが利用できなくなり、ほどなく特養に移った。
僕は……サカさんの言おうとしていたことがおぼろげにわかったような気がする。
たった二、三日の間に見てくれが激変する野原。その断片しか見ていなければ、僕らはとんちんかんな大元を捏造してしまうんだ。僕が最初に「アフリカですか」って聞いたみたいに。
だけど、普通に草がぼさぼさ茂っている野原なんか記憶に残らないし残さない。干上がってひび割れたのも水浸しのも野原本来の姿じゃないはずなのに、そんな極端な姿しか思い出せないんだ。その極端な断片から自分が歩んで来た道程を復元できる? できないよね。
サカさんは、自分の中に残っている記憶をできるだけ繋げ合わせ、復元しようとしていたのかもしれない。でも、残っている断片はどれも感情の干渉でひしゃげてる。最後は……復元を諦めたんじゃないかな。
「……」
僕にとって、サカさんは数いる利用者さんの一人にすぎない。いずれ僕の記憶からも消えてしまうんだろう。あの時の会話だけを記憶に残したくなくて、サカさんが写真を撮ったという空き地を見に行った。そこには見慣れた草ぼうぼうの空き地があるのかなと思ったから。それが僕とサカさんの思い出せない日常かなと思ったから。でも、空き地はもうアスファルトで隙間なく覆われていた。
拭い去ることのできない、断片だけを残して。
Broken Pieces by Koryn Hawthorne
《 ぽ ち 》
ええやんかーと思われた方は、どうぞひとぽちお願いいたしまする。(^^)/
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『断片』
「サカさん、なんでにやにやしてるんですか?」
「ひっひっひ」
サカさんこと、坂上さんはとても厄介な利用者さんだ。もう八十後半で足腰がだいぶ弱り、自力での立ち居振る舞いが困難になりつつある。通いで世話に来ていた娘さんによる介助が厳しくなって、週二でデイケアに来ているんだけど。このおじいさん、とにかく言うことがころころ変わるんだ。
認知に障害があるわけじゃなく、短期記憶やロジックは明晰。でも、語られることのどれが真実で、どれが嘘かがちっともわからない。根っからのほら吹きとか冗談好きとか、そういうわかりやすい虚実ではないから、まともに話を聞くとひどい目に遭うことがある。
スケベでも暴力的でもないのに女性ケアスタッフからひどく敬遠されているのは、そのせいだ。ボケてるっていうのがわかってるなら聞き流すんだけど、まともだと……ねえ。スタッフが揃って辟易している。もっとも、当のサカさんはどこ吹く風。今日もあることないこと織り交ぜて、楽しそうに我々に話を振る。
で、今日の獲物は僕になりそうだ。やれやれ……。
にやにやしながらサカさんが見比べていたのは二葉の写真だった。大昔の、ではない。出来立てほやほやという感じの鮮やかな写真だ。てか、草? サカさんにガーデニングとか自然観察とか、そんな趣味あったっけ。
僕が写真を覗き込むと、サカさんから写真を手渡された。
「俺の遺影だよ」
「またまたあ。心霊写真とか言わないでしょうね」
「写ってるそのままさ」
冗談なんだかまじめなんだかわからない。リアクションに困ってしまう。
「まあ、じっくり見てくれ」
まばらに草が生えている写真なんだけど、見事に対照的だ。片方は乾いて地面がひび割れている。
もう一方は、水田のように草が水に浸かっている。
「片方は、アフリカかどっかですか?」
「俺がアフリカくんだりまで行けると思うか?」
「……無理ですね」
サカさんは車椅子から手を伸ばして二葉の写真を交互に指差し、改めてにやりと笑った。
「そらあ、うちのすぐ側の空き地さ。古い市営住宅を潰して、そこに道路を通すらしい」
「同じ場所なのに水浸しと乾いてひび割れしてるってのは、相当地面がでこぼこってことなんですか?」
「いいやあ、ブル入れてきれいにのして、ローラーまでかけてる。真っ平らだ」
混乱してしまう。まあた、サカさんのほんとだかうそだかわからない話にまんまと乗せられたかなあ。どう答えたものか四苦八苦していたら、にやにや笑いをすっと引っ込めたサカさんが、手を膝下に戻した。
「そいつは全く同じ場所さ。違うのは撮った時間だけだ」
「ええっ?」
確かに、生えている草の様子は似ていなくもない。でも、状況が違いすぎるだろ。
「ついでに言っとくと。水浸しのやつはひび割れのやつの三日後。何日も離れてない」
「信じられないですけど」
「別に信じなくってもいいけど、実際にそうなんだ」
「……」
誰に言うともなく、サカさんが淡々と話す。
「猛暑だから乾いてて、ずっと雨降りだから水浸しってこともない。どっちも撮った日は薄曇り。前の日が晴れてたか雨だったかの違いしかないんだ」
「まるっきり変わっちゃうんですね」
「水はけが悪いんだろ。下に水がしみにくいから、溜まった水がどっかにすぐ流れちまう。で、乾いたらぱりっぱりさ」
きょろっと視線を上げたサカさんが、写真ではなく僕の目をじっと見た。な、なんだあ?
「あんた、記憶ってのがずっと続いていると思うかい?」
いきなり話が飛んだ。思考が追いつかない。
「今生きてるんだから、俺らは連続した時の中にまだ置かれてる。そいつは事実さ。だけど記憶は人造物だよ。必ずしも事実の写しじゃない。覚えるか覚えないかもそうだが、覚えるにしても感情で脚色される。ほんのわずかな断片しか残らないのが記憶ってもんだ」
サカさんが手を伸ばしてきたから、写真を返す。視線を落として改めて写真を見比べたサカさんは、皺だらけの節くれた指で紙片をぽんぽんと叩いた。
「それなのに、俺らは脚色だらけの切れっ端からなんとかして大元を引っ張り出そうとするんだよ。そんなのは最初っから無理だし、無駄だ」
◇ ◇ ◇
サカさんは、僕と話をしたあとからほとんど口を利かなくなった。職員とのコミュニケーションが全く取れなくなったためにデイケアが利用できなくなり、ほどなく特養に移った。
僕は……サカさんの言おうとしていたことがおぼろげにわかったような気がする。
たった二、三日の間に見てくれが激変する野原。その断片しか見ていなければ、僕らはとんちんかんな大元を捏造してしまうんだ。僕が最初に「アフリカですか」って聞いたみたいに。
だけど、普通に草がぼさぼさ茂っている野原なんか記憶に残らないし残さない。干上がってひび割れたのも水浸しのも野原本来の姿じゃないはずなのに、そんな極端な姿しか思い出せないんだ。その極端な断片から自分が歩んで来た道程を復元できる? できないよね。
サカさんは、自分の中に残っている記憶をできるだけ繋げ合わせ、復元しようとしていたのかもしれない。でも、残っている断片はどれも感情の干渉でひしゃげてる。最後は……復元を諦めたんじゃないかな。
「……」
僕にとって、サカさんは数いる利用者さんの一人にすぎない。いずれ僕の記憶からも消えてしまうんだろう。あの時の会話だけを記憶に残したくなくて、サカさんが写真を撮ったという空き地を見に行った。そこには見慣れた草ぼうぼうの空き地があるのかなと思ったから。それが僕とサカさんの思い出せない日常かなと思ったから。でも、空き地はもうアスファルトで隙間なく覆われていた。
拭い去ることのできない、断片だけを残して。
Broken Pieces by Koryn Hawthorne
《 ぽ ち 》
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