《ショートショート 1466》


『蓋は閉まっていた』 (ぱっけーじ 8)


「蓋は閉まってたの?」
「閉まってた。ただ、開封したのを締め直したのか、未開封のままだったのかはわからない」

 サイアス女史が、俺の撮った現場写真をじっと見下ろしている。同じようなガラス瓶がいくつか林内に散らばっていて、その一つだけに蓋がついている。蓋のない瓶は空き瓶。全部空だ。蓋のついている瓶には液体が入っているが、濁っている。

「中身を見る限り、開封されたように見えるけど」
「俺もそう考えたんだが。蓋に緩みはなかったんだ」






 一ヶ月ほど前に、俺が勤務している微生物研究所でちょっとした盗難事件があった。ガラス製の大型マヨネーズ瓶に入れてあった調整済みの液体培地が一本、冷蔵庫の棚から無くなっていたんだ。

 瓶は内容物の劣化を防ぐために緩く蓋をしてバキュームシーラーで脱気し、パッグの外側からきつく蓋を締め直してバッグから取り出す。さらに蓋と本体の間にシーラントを貼って密封を確定する。瓶から取り出して実験に使うには、シーラントを剥がして蓋を開けなければならない。開封済みと未開封の瓶とが区別しやすいので、ずっとその方法で保存されてきた。
 一度開封した瓶にはシーラントを再貼付せず、そのまま使い切るのも所内の基本ルールだ。冷蔵しているとは言え、液体培地は空気に触れると劣化しやすい。雑菌が混入する恐れもある。実験の失敗に繋がりかねないので、絶対再密封はしない。
 特殊な組成の培地だが、危険な成分を含有しているわけでもなく、単価的にもひどく高価なものではない。けちけち使って実験を台無しにするくらいなら量を問わずに使い切りにした方がいいというコンセンサスは、職員の間できちんと共有されていた。つまり、開封された状態の瓶が冷蔵庫に戻されることはない。盗まれた培地は未開封だと。俺たちはそう考えたわけだ。

 所内で管理されている薬品を使用するには、職員のIDカードが要る。薬品瓶から取り出した減少分が自動的に使用簿に記録されるので、危険薬品による事故や不正使用を防ぐことができる。ただ、培地のように危険物を含まない再調整物は管理簿外品であり、瓶の数量でしか管理されていない。保管場所も薬品庫ではなく実験用冷蔵庫だから、盗もうと思えばすぐにでも盗み出せる。……その意味があれば、だけどね。
 俺たちにとって調整培地は、テイクアウト自由の飴と同じようなもので大した価値はない。一本盗まれたところで痛くも痒くもないんだ。

 俺たちが問題視したのは『誰が』『何の目的で』俺たちにすら大した価値のない培地を持ち出したか、だった。
 警察に被害届を出すほどの被害額ではないし、研究所外に持ち出されても悪用しようがないブツだ。管理体制不備とモラルの問題だけなので、犯人と盗まれたブツ探しは遅々として進まなかった。で、そのうちにうやむやになってしまったんだ。俺ら全員の心にもやもやを残して。

◇ ◇ ◇

 ところが。一度鎮静していたもやもやに昨日再点火した。研究所からそれほど離れていない小さな雑木林の一画にいくつかのマヨネーズ瓶が捨てられていると通行人から通報があったんだ。
 うちの研究所では器具の廃棄を全て業者に委託している。いかなる器具、機械も非正規のルートで捨てられることはない。つまり、見つかった瓶は盗まれたものである可能性が高かった。盗まれたのは一本だけ。なので、残りの空き瓶はカムフラージュだろう。所長に現場確認を頼まれ、瓶を確かめに行ったんだ。

 培地が傷んでいることは一目瞭然。それだけ見れば間違いなく開封済みだろう。だがシーラントは外れていたものの、蓋はしっかり閉まっていた。間違いない。閉まっていた。念のため力任せに蓋を緩めてみたが、蓋が開く瞬間に聞き慣れたしゅっという音が聞こえた。
 発酵で瓶内にガスが出ていれば、噴出した腐敗ガスの匂いがするはず。だが、匂いはしなかった。排気ではなく吸気の音だろう。だとすれば、俺が開栓するまで中の減圧状態が維持されていたことになる。

 盗まれた培地の瓶は見つかったんだ。あとは瓶と残液の処理を業者に任せればいい。手続き的には「はいおしまい」なんだが、俺も女史もどうもすっきりしなかった。単なる好奇心やいたずらなら、手の込んだカムフラージュなんかする必要はないはず。なぜ、盗まれた瓶の他に空き瓶がちらばっていたんだ?






「そうか。そういうことか」

 写真をじっと見つめていた女史が、何事かに気づいて大仰に頷いた。

「何かわかったのか?」
「多分ね」

 空瓶の写真。その上に指を置いて、女史が推理を展開し始めた。

「うちの研究所は地味よ。機密がーとか、特許がーとか、巨万の富がーとか一切関係なし」
「ああ。だからこそ、なんで盗み出すなんていう発想が出てくるかなあと」
「わたしたちの間では、ね」
「あっ!」

 その途端に、俺の中でも犯人と犯行理由がぱっと浮かび上がった。

「作業助手か!」
「そう。ジョセリンでしょ。あの子には科学的知識が全然足りなかったから」
「ああ」

 なるほど。そういうことだったか……。
 俺たち研究者にとって当たり前のことでも、単なる助手にとっては魔法の手練手管だ。瓶に濾過滅菌した培地を注ぎ、緩く蓋をして脱気、密封し、シーラントを貼る。なんてことはない単純作業だから、それはジョセリンにもこなせる。だが科学の素養がないジョセリンには、培地を入れる瓶を使用前に煮沸しなければならないってことがわからなかったんだ。

 ただ水洗いしただけの瓶に培地を入れて作業を行なったら、いくら冷蔵庫に保管してあると言っても混じった雑菌によっていずれ培地が傷んでしまう。自分が作るようになってからは、どんなに丁寧に作業をしても液が濁るようになったんだ。だから濁りの出た瓶をこっそり取り出し、今度こそはと新しく作ったものと入れ替えた。
 失敗したのを持ち出すと瓶が足りなくなるので、よそで同じ瓶を買って持ち込み、こっそり瓶のストッカーに補充していたんだろう。持って帰ったやつはどこかに中身を捨て、洗って自宅に隠しておいた。盗まれた……いや持ち出された瓶は一つじゃなかったんだ。

 だが、その後も培地が濁ってしまう事態は収まらなかった。焦っていたところに、自分が作る前から冷蔵庫にあった既存在庫が減って、まとめていっぱい作ってくれと指示を出されてしまった。もうごまかしきれない。
 へまを叱責されるのが怖くなったジョセリンは、入れ替えるつもりで持ち出した瓶を持って逃げたんだ。……辞めるという形で。だから、本数が一つ少なくなった。

 なぜ今まで俺たちがそれに気づけなかったか。盗難事件があったあとに、冷蔵庫にあった培地を全部処分したからだ。なんか気持ち悪くてね。つまり、ジョセリンのへまはその時点で全部ちゃらになってしまったんだ。
 へま? いや、へまをしたのはジョセリンじゃない。手順だけでなく理屈や注意点をちゃんと説明しきれていなかった俺たちのへまだ。なんか……かわいそうなことをしたな。

「なあ。サイアス」
「うん?」
「一般の人たちは蓋の閉まった空の瓶を見たら、中身がないと考える。だが、微生物を扱っている俺たちはそうじゃない。蓋がしてあって中身が空でも瓶の中は雑菌の巣窟。全部滅菌しないと怖くて使えない」
「そうね」
「容器っていうものに対する概念が、俺たちと一般人との間でずれてるんだよ」
「うん。もしジョセリンにジャム作りの経験があったら、こうはならなかったかもしれない」
「は? どうしてだ?」
「ジャムを詰めるガラス瓶は熱湯で消毒しないと、ジャムが傷んじゃうのよ」
「知らなかった……」

 サイアス女史が寂しそうに笑った。

「ジャムがまだ熱いうちに熱湯滅菌した瓶にぎりぎりまで詰めて、固く蓋をする。そうすることで冷めた時に中が減圧され、カビたり発酵したりしにくくなるの。培地の調整と理屈は同じなんだよね」
「そうか」

 俺は手元の空き瓶に目を落とす。瓶はどれも同じ形だが、それぞれ違う中身が入っている。研究者なら研究者の、一般人なら一般人の、そして妻や母ならばそれらの中身が。
 でも、きちっと蓋がはまっていると。それらに大雑把なラベルが貼られていると。俺たちは錯覚してしまうんだよ。同じ蓋のやつは全部同じ中身だってね。

 もう一度写真を指でつついたサイアス女史が、ふっと小さな溜息をついた。

「通報したのはジョセリン自身でしょ。わたしは蓋を開けてません。ちゃんと言いつけ通りに作業しています。それなのにどうして中身濁っちゃうんですか。それは言い訳でも単なる疑問でもないわ」
「うん。そうだな。抗議だ」
「その抗議がここでできなかったこと。わたしたちは事態を重く見なければならないわ」

 ふう……現場写真の上に空の瓶を置いて、手のひらで蓋をする。

「培地作りの時はともかく。俺たちの蓋が必要以上にがっちり閉まっているのはまずいってことだな」





Sealed by Klone


《 ぽ ち 》
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