第四話 春萌え


(2)

「いやあ、ひっさしぶりだなあ」

 思わず口走る。子供らがまだ小さい頃は子供を連れて中を歩き回っていたが、それ以降は野原を訪れること自体数えるくらいしかなかったんだ。もちろん、中には足を踏み入れていない。久方ぶりに野原の若草を踏みしめると、ほどよく雨を含んで膨らんだ土の匂いと若草の乳臭さが混じり合い、なんとも気恥ずかしくなる。清々しいのではなく、若々しい気配。そこに、いいかげんくたびれ果てたおっさんが紛れ込んでいるわけだから、どうにも居心地が悪い。
 それでも、這い上ろうとする家並みを足下に睥睨(へいげい)できるってのは悪くない。穂坂さんが最後までプライドを捨てずに済んだ理由がよくわかる。下郎は控えおろうっていう殿様の気分だ。

 ただ……。やっぱり変なんだよな。ここが本当の野原なら、もっと生命の気配が濃いはずなんだ。ぼちぼち春の野花の色が増えてくる。当然、それを目当てに野原を飛び回る虫たち、たとえばチョウやハチの姿や羽音が春らしさを醸し出すだろう。それが……ほとんどない。全くないわけじゃないけど、極めて少ない。揚雲雀の一つや二つさえずっていてもいいはずなんだけど、鳥の気配もない。だから、春萌えで明るく賑やかになっているはずの野原が静まり返っているように感じられてしまう。
 子供の頃は野原で走り回れるだけで満足だった。細かいことは何も気にしなかったんだ。今から思えば、虫取りも花摘みもしていなかったなあと改めて気づく。

 とはいえ、野原そのものは以前と全く変わらない。こうして歩いていても、何が起きるわけでもない。どこにでもある春野原だろう。ゆるやかな起伏を足で確かめながら、ロープの内側をなぞるようにしてぐるりと回り、そのあとてっぺんに登った。下から見上げると大した傾斜じゃないように感じるが、てっぺんに立つといささか印象が変わる。思ったよりも見下ろし感が強い。それでわかったことがある。

「そうか。真っ平らじゃないから、遊ぶといってもいろいろ制限があるんだな」

 子供の頃を思い返す。街中には広い空き地がなく、遊具のある児童公園と小中学校の校庭くらいしか自由空間がない。でも、どこも平地(ひらち)なんだ。試合はできないが野球のキャッチボールくらいは可能だし、実際やっていた。ミニサッカーやドッジボールなども、球一つあればできるから定番だったんだが。ここでは球技がひどくやりにくい。球がどこに転がり落ちてしまうかわからないからだ。できてせいぜいバトミントンくらいか。それだって、風がよく通り抜けるここじゃ楽しめないだろう。

 視界を遮るものが何もないのは広々していて気持ちいいんだが、いざ遊ぶとなると逆に退屈なんだ。遊具も障害物もないから子供はすぐに飽きてしまう。実際、俺も陽花もすぐ飽きた。俺の子供らもそうだ。ここの近所の子供たちにしたってそうだろう。私有地の中に忍びこむスリルがあっても、それは最初だけ。せいぜい中を駆け回るくらいのことしかできなければ、結局飽きてしまう。

「なるほどな」

 俺も本当に鈍いな。今になってやっと納得だ。ここの野原が、子供たちに対してだけ鷹揚っていうことじゃないんだろう。子供はここに長居しないんだ。ヨソモノは出て行けと目くじらを立てなくとも、さっと出て行ってしまう。入り込む人数だって知れたものだろうし。おまけに、ここにはよく豊島さんが来る。豊島さんは筋にものすごくこだわるから、勝手に入り込んだ子供たちには容赦しないな。徹底的にどやし倒したはずだ。

 大人にとっては子供以上に退屈だろう。せいぜい散歩したり、草っぱらに寝転がって読書や昼寝するくらいがとこで、ずっと野原にいろと言われる方がむしろしんどい。神隠しの一件があって、住人の誰もがここに気味悪さを感じているから、大人はまず入り込まないだろうし。
 親父やお袋だってそうだったんだ。俺たちを連れて中を歩くことがあっても、短時間。俺たちを中に残し、牧柵の外で豊島さんや穂坂さんと話をしている時間の方がずっと長かった。

「……だとすれば」

 一番この野原での滞在時間が長かったのは放牧されていた牛たち、か。だが、牛たちは夕刻前に畜舎に戻される。放されっぱなしということはないんだ。当時はこの野原以外にも放牧地があったはずだし、放たれた牛がこの野原で草を食んでいたかどうかも定かじゃないんだよな。

 穂坂さんがご存命なら往時の様子を聞けたんだが、今は親父とあの世で酒を酌み交わしながらよもやま話を散らかしているだろう。確かめることはもうできない。もっとも、穂坂さん自身がここの縁起を確かめるつもりが全くなかったみたいだから、どうだったかなあの一言で終わってしまったかもしれない。

 考え事ばかりでちっとも春野ののどかさを堪能できず、でかい溜息を吐き残してロープをくぐり、牧柵の外に出る。一歩外に出れば、そこは現実そのものだ。

「ううう、やっぱり人を頼まないとだめかあ」

 ぱっと見には目立たないものの、ゴミだらけだ。空き缶、ビニール袋、タバコの吸い殻、読み捨てられた雑誌……。ほんの一、二ヶ月の間に野原のすぐ外がふすふすと汚されていく。ゴミの気配すらない野原との落差が日に日に大きくなっていく。それがどんなに異様な光景なのかは、ここの住民以外にはわからない。つまり、住民以外の歓迎できない連中がこの辺りに出没しているということだろう。








Spring Field by Serph


《 ぽ ち 》
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