《ショートショート 1459》


『にごりえ』


「空が海を映しているのか、海が空を映しているのか、わかんない」

 そう言って、女の子が憂鬱そうに海と空の混じり合うあたりを見ている。僕は彼女から目を逸らして顔を上げた。潮風が冷たい。

 見上げた空は、中途半端な雪雲で濁っていた。予報ではちらつくかもって言ってたけど、気温が思ったより高い。もし降っても雨混じりになるだろう。






 こんなろくでもない天気の日に、いきなり海が見たいと言い出したのは僕じゃない。彼女だ。しかも、彼女は僕の恋人でも友人でも、ついでに言えばクラスメートですらない。名前も知らない赤の他人だ。
 午前九時から午後四時まで、昼休みを挟んでぶっ通し行われる大手予備校の模試。午前中の数英で撃沈して、今回は惨敗だなあとべっこりへこんだまま会場近くのサイゼに昼飯食いに行ったら。入り口でいきなり腕を掴まれて、引き戻されたんだ。

「海が見たいから付き合って」

 誰だ? ショートヘアで気の強そうな子。僕の苦手なタイプだ。コートの隙間から見えるのは知らない制服だし、こんな知り合いはいない。腕を振りほどいて店に入り直そうとしたら、僕の前にしゃがみ込んだその子がいきなり泣き出したんだよ。まるで僕がなんかして泣かしたみたいじゃないか。
 しょうがない。逃げるしかない。昼飯は他で食おう。さっとサイゼの前を離れて、小走りに会場と反対方向に向かった。でも……彼女は僕をつけてたみたいだ。いつの間にかすぐ後ろにいて、いつの間にか横に並び、そのあと前に出て僕を足止めした。

「なんで逃げるの?」
「あんた、誰? 僕はあんたなんか知らないんだけど」
「わたしも知らないよ。模試にうんざりって顔のやつをてきとーに捕まえようと思ってたから」

 黙って引き返そうと思ったら、すかさず前に回り込まれる。

「あんた、トモダチいないでしょ」
「……」
「わたしもなの。だから海見に行くの、付き合って」

◇ ◇ ◇

 確かに、午前中の撃沈で午後の部を受けるモチベーションはなくなってた。これが受験本番なら一年間の努力がぱあってことになるんだろう。だけど、僕はまだ二年。本格的な受験勉強はこれからだ。今回みたいな時もあるって割り切れる。でも……進路がちっとも割り切れてない。
 学校でも予備校でも、今の君ならこのあたりっていう候補は示してくれる。候補になってるところで何ができるかも大学の公開情報でだいたいわかる。ちっともわからないのは、そこにいる自分の姿なんだ。目指すものも、大学生活を楽しめるのかも、今はいない友達ができるのかも、全くわからない。今のつまらない自分の延長上にしか置けるものがないから。
 必死に知識だけを詰め込もうとしても、その知識の出口が見つからない。頭の中がぱんぱんになってて、もう何も入らないよって悲鳴を上げてる。

 でも、あと一年しかないし、あと一年もこの状態が続くんだよな。とか。どうしようもなく鉛色の気分のまま同じ色の曇天を見上げてたんだ。その一瞬の隙を突かれたんだろう。結局拒みきれなくて、海を見たいっていう彼女のわがままに付き合わされることになった。

 近いから東京湾のどこかでいいと思うんだけど、彼女的には砂より人が多いところは嫌みたいだ。なんかこう松があってえ、島っぽくってえ、みたいなろくでもないことを言ったから、遠出する金なんかないよと拒否った。
 そしたら、付き合わせちゃうから電車賃は持つって言った。オフシーズンだから海水浴場はがらがらだろう。その端っことかでいんじゃね? ということで逗子に行くことにした。京浜急行で一時間の旅だ。

◇ ◇ ◇

 僕はこてこてのインドア派で、外を歩き回るくらいなら部屋でごろごろしていたい。当然、海なんか見に行こうと思ったことはない。だから、どんよりした雪雲に押し潰されそうな汚い色の海でもすごく新鮮だった。
 電車の中でも駅出て砂浜を歩いてる時もずっと無言だった女の子が、突然こっちを向いた。

「にごりえって、知ってる?」
「なにそれ」
「樋口一葉の小説」
「知らない。僕、理系だから現代文とか苦手で。どんな話?」
「わたしも知らない」

 なんだよう。

「たださあ。わたし、濁った絵のことだと思ってて、ママに笑われたんだ」
「違うの?」
「違う。泥で濁った入江のことなんだって」
「ふうん」

 彼女がぽつんと海に放った独り言が、頭の中でゆっくり再生される。

『空が海を映しているのか、海が空を映しているのか、わかんない』

 今濁ってるから、濁った未来しか見えてこないのか。それとも濁ってて未来が見通せないから、今濁ってしまうのか。いや……たぶんそのどっちでもない。両方とも濁ってる。
 僕と彼女だってそうさ。濁ってる僕が彼女をくすませているわけでも、濁ってる彼女が僕をくすませているわけでもない。僕らはそれぞれ濁ってる。

「ふうっ」

 吹き寄せる冷たい潮風にでっかい吐息を流して、もう一度空を見上げる。






 彼女は曖昧な水平線を見つめたままみじろぎもしない。だから声をかけた。

「今は海も空も汚い色だけど、天気がよくなれば濁りは取れるよ」
「うん」
「でも、僕は空の方が好きかな」
「どして?」
「海を映さないから」
「……」

 海を濁らせているのが泥なら、泥が沈んで水が澄むまでは濁ったままのはず。濁っているのにきれいに見えるとすれば、空を映してるから。僕ならそう考える。
 にごりえなのに、きらきらぴかぴかした空を映して見せたってしょうがない。そんなのは見せかけ。ずっと濁っているのが嫌なら、泥が沈むのを辛抱強く待つしかないんだろう。だから好きなのは空だけど、僕自身は海だ。

「さて。今回はしょうがないとして、立て直さなきゃ。僕は帰るよ」
「付き合わせてごめんね」
「いや、いい気分転換になった。助かった」
「ふふ」

 僕が怒ってないことにほっとしたのか、彼女の方が僕より先に駅に向かって歩き出した。僕は一度振り返って、空との境が曖昧なにごりえに別れを告げた。

「ばい。今度は天気のいい日にな」
「ほんと?」

 いつの間にか僕の前に彼女が回り込んでいて、思わずのけぞった。

「ううー、ちょっと、勘弁してよー」
「ちぇー」

 ぷうっと膨れた彼女を見て苦笑する。まあ、いいか。来る時と違って、帰りの電車で退屈することはなさそうだ。





Muddy Water by Boo Hewerdine


《 ぽ ち 》
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