《ショートショート 1448》


『水影』 (こんとらすと 13)


「浅いとね、水影(みずかげ)はよう映らへんのですわ」

 初老の男が背を丸め、足元の小さな小さな小石を一つ拾った。それから、周囲の参拝客に見つからないように密やかな手つきで、小石を水面に放った。
 水音はしない。石の小ささに応じたささやかな環紋が二つ、ふっと一瞬だけ滲んだ。

 佳奈子は男と同じように屈むと、石の代わりに小さな紙片を水面にそっと浮かべた。紙は石のような頑迷さを持たない。沈むことなく、風に揺られるたびに不定形の波紋を投げかけ続ける。

 石と紙を安易に男と女に重ねるべきではない。佳奈子がいくらそう言い聞かせても、沈んで動かない小石とあてどなく揺れながら流れ行く紙片が、どうしても現実の自他に重なる。

 ただ。先ほど男が口にした言葉は確かめられた。きちきちと視線を尖らせて水面を注視すれば、うっすらとでも見えるかもしれない。だが、佳奈子の目には何の水影も見えなかった。

 ぞろりと並んだ敷石の上を、時折しわくちゃの紅葉を浮かべて通り過ぎる緩やかな水流。目に入るのは浅い水を持て余して黙り込む底石だけ。先ほど男の放った石も、すでにどこにあるかわからなくなっていた。

 午後三時。下鴨神社。みたらし川。






 男は佳奈子の知り合いではない。男には、佳奈子が道に迷っているように見えたのだろう。下鴨神社まではたどり着いたものの予想以上の広さに戸惑い、方向感を失ってうろうろしていると。不安げな様子を見かねたのか、どちらにお参りしはりますと声をかけてきたのだ。
 佳奈子に、特に目指す社殿はなかった。そぞろ歩く観光客の流れに巻き込まれるよりも、初冬とは思えない濃い緑陰の中に埋もれている方が気が紛れたから。だが、ずっと足を止めて梢を見上げ続けるにはあまりに寒かった。傾き始めた日差しを木々にごっそりと横取りされ、得体の知れない寒気がじわじわと足元から這い上がる。少しだけでも体を動かしていないと、そのまま凍りついてしまいそうだ。心までも。
 陽気な観光客の多い社殿に向かうのは気が進まなかったが、男の勧めに従って開けた場所に移動することにした。あるかないかの水音を手繰るようにして、ひっそりと。

 男は、佳奈子に積極的に関わるつもりがないようだった。地味な作業ジャンパーのポケットに両手を突っ込んだまま、無表情に黙々と歩を進めた。男の沈黙は、佳奈子には好ましく思えた。だからこそ、付いていく気になったのだ。

 結局、男はみたらし川の側でぼそっと口を開いたきり。何も映らない水面をしばらく見下ろしていたが、顔を上げて日差しの角度を確かめ、暗くならんうちに宿に戻んなはれと言い残して何処かへ去った。あとには佳奈子一人が残された。男の後ろ姿が人波に飲まれたあと、佳奈子もきびすを返した。

 由緒ある神社に詣でても、願い事は叶わない。叶えようとも思わない。
 水影がいつの間にか現れいつの間にか消え去るように、自分の姿はきっと水面の虚像としてしか存在し得ないのだろう。水面に投げかけられたビジョンは、男の懐が深ければ深いほど、底が見通せないほど深いほど、鮮やかに浮き上がる。そこに確かに佳奈子がいるかのように。だが実のところは映るだけなのだ。そして、ビジョンには男の奥底に到達しうる実体がない。
 小さな紙片のように水面をふわふわ漂い、かすかな波紋を広げ、いつの間にか流れ去る。もし水底に沈めたとしても、それははるか下流でのできごと。微細な感情の泥に紛れ込み、どこに在するのかは本人ですらわからなくなる。

 再び森の緑陰に紛れ込んだ佳奈子は、顔を上げることなく参道をとぼとぼと南下した。途中、水面にも森が広がる川辺でふと足を止めた。






 ささやかな瀞場。森が映り込むくらいには水の深さがあるのだろう。しかし水面をいくら凝視しても、そこに佳奈子の姿はない。映らないことに安堵しながら。同時に、映らないことに深い失望を覚えながら。佳奈子は重い足を引きずり、森の懐から這い出すことにした。

 日がみるみる翳り、水には暗黒以外何も映らなくなる。いや……違う。暗黒が何もかも飲み込み、全てを影に変える。影に飲み込まれれば、二度と影から出られなくなる。
 そんなのは何の根拠もない思い込みに過ぎない。どれほど己に言い聞かせても、迫り来る夕暮れとともに足元を洗い始めたどす黒い不安が足送りを急かす。いつたどり着けるとも知れぬ出口に向かって、ひたすらに。

 午後四時。糺の森。





I See The Water by Young Oceans


《 ぽ ち 》
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