わたしたちは様々なパーツから成り立っていますが、わたしたち自身は普段そのことを意識しません。
あるパーツが欠損したり機能しなくなって初めて、そのパーツがあった意味を考えることが多いのです。
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パーツが身体の部位であった場合、パーツの不全は速やかにわたしたちの日常を劣化させます。わたしたちは否応なしにパーツのことを考えざるを得ません。
また、そうした明確な欠損は第三者から見てもわかりやすいですね。欠けているパーツを補おうとする好意的な介助アクションが起こりやすくなります。
しかし。我々自身がパーツであるとみなされた場合、その真逆のアクションが起こされます。全体の機能を下げないように、機能不全を起こしたパーツを速やかに他のパーツと置き換えようとするのです。置き換えられるわたしたち自身がまだ十分機能しているパーツだと自認していても、です。パーツとしてのわたしたちは、極めて矮小化されやすいのです。
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全ての事象はパーツの組み合わせでできています。
そして、パーツの組み合わせに何かの意図や必然が作用するとは限りません。
それぞれのパーツは独立しているように見えますね。
ですが、それらは総体の中の一部……パーツに過ぎません。
それらが統合されたのち。
あなたは各々のパーツをどう捉えるでしょう?
豆は莢から出ても出なくても豆だ
7 Billion by Cyriak
Pieces and Parts by Laurie Anderson
《 ぽ ち 》
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