《ショートショート 1409》


『水上の森』 (トリロジー 27)


 まとまった雨が降ったあとにしか見られない画(え)がある。珍しいものではないのだが、着目する人がほとんどいないからか、その画を見せると誰もが興味を示す。

「それは、なんですか?」
「森です。水上の森ですよ」

 私は説明を端折っても盛ってもいない。事実を正確に言葉に変換しているのだが、私の説明に食いつく人はほとんどいない。画がかき立てたわずかな好奇心は、当を得ない私の言葉であっという間にかき消されてしまう。
 なるほどという曖昧な応答と薄笑いに紛れて、大概それきりになる。まあ……それはそれで一向に構わない。

 水上の森は、見える人にしか見えないからね。






 当然のことだが、ほとんど誰にも訴求しない画を積極的に人に見せることはない。種々雑多に撮ったネイチャーフォトのサムネールを見た人が気まぐれに目を留めるだけで、大半の閲覧者はわずかな擦り傷しか意識に残さない。

 もちろん、私が誰かに画を強く印象付けようとして撮り方を工夫すれば、もっとアートとして自ら訴えかける画像に成長するのだろう。
 しかし、私の撮る画像はあくまでも記録だ。そこに水上の森があったという素っ気ない記録。誰かに誇るでも主張するでもなく、森がただそこにあることをシンプルに示すもの。
 撮っている私の意識が記録者の枠内にすっぽり収まっている限り、水上の森が勝手に育って画面からはみ出し鬼面人を驚かすことはない。

 その日も、水上の森を見せるつもりなどなかったのだ。

◇ ◇ ◇

 私が住んでいるマンションから二キロほど離れたところに、市民の森という緑地がある。森とついているが、それほどご大層なものではない。
 かつて土地神が祀られていた小さな社(やしろ)。鎮守の森はほとんど伐り拓かれてしまったが、竜神池と呼ばれる広い池は残った。その池を囲う一帯が現在緑地公園として整備されている。森と呼ぶには樹影が薄いものの、池水を写しこんだ花を撮れるので散歩がてらよく撮影に出向く。

 ただ、私が撮る画像は遠景よりも近景……それもマクロ撮りのみみっちいものが圧倒的に多い。道端にしゃがみ込んで変なものばかり撮っているおっさんがいると訝ったのだろう。初老の公園管理職員に「何を撮っておられるんですか」と声をかけられたんだ。ごく普通の風景写真がほとんどない画像のサムネールを見て、彼はやたらにおもしろがっていた。
 その勢いで、市の広報に知り合いがいるんですが画像の提供をお願いできないでしょうかと頼まれてしまった。ど素人の撮った画像が使い物になるのか知らんが、使えるものがあるなら自由に使っていいと返事をした。

 帰宅後すぐに広報課の女性職員さんから電話が来て、画像を見せてもらえないかという打診があった。カメラの液晶画面でサムネールを見せるのはどうにも味気ない。市民の森で撮った画像をノートパソコンにざざっとコピーし、市役所の談話室に持って行った。

 落ち着いた声だったので中年女性だと思い込んでいたんだが、会議室に現れたのは二十代前半と思しき若い美女。ただ……年齢や美貌相応の華やいだ雰囲気がない。それが気になった。
 彼女もまた、私がリタイヤした爺さんにしては若く見えたことに驚いただろう。七十はとうに越してるんだけどな。
 とか。互いに目線でさっと品定めをしたあと、彼女がひょいとお辞儀をした。

「折原さんですね。広報課の橋口と言います。今日はよろしくお願いいたします」
「こちらこそ。御役に立てますかどうか」

 打ち合わせの場所が喫茶店とかなら与太話をし放題だったんだが、すぐ横を職員が引っ切り無しに行き来するオープンな談話室ではすぐ本題に移るしかない。
 ノートパソコンの液晶画面にこれまで撮り溜めた画像をずらっと並べ、目を通してもらう。今は初夏だが、画像は一年分ある。広報誌ならその方がいいだろうと思い、季節を限定せずにまとめて持って来たのだ。

 サムネールの小さい画像をいくつかクリックしながら、そこに現れる動植物のマクロ画像を見ていた彼女の手がぴたっと止まった。

「これ……」
「ああ。そいつは水上の森です。雨のあとにしか撮れないやつでね」

 私の説明はこれまでと変わらない。自慢するでもなく、放り出すでもない。事実を淡々と述べただけだ。彼女が、これまでの閲覧者同様にその画像を見飛ばしたのであれば、それきりだった。
 だが私が撮った水上の森は、初めて画の上に全容を表すことになった。






「あの……同じような森の画(え)は他にも撮られているんでしょうか?」
「ああ、ありますよ。市民の森は樹影が薄いので、あまり数がないかな。他で撮ったのも合わせれば、十数枚撮ってるはず」

 ただ。過去の水上の森の画像はノートパソコンに入れてない。今回持ち込んだ中には三枚しかなかった。その三つを複製して大きく映し出す。
 食い入るように三つの画像を見比べていた橋口さんの口から、思いもしなかった過去が転がり出た。

「わたし」
「はい?」
「わたしね、同じ景色を見たことがあるんですよ」
「水上の森を、ですか?」
「はい。まだわたしが幼い頃です」
「どちらで、ですか?」
「わかりません」

 私と話をしている間も、橋口さんの視線は水上の森に縫い付けられたままだ。

「わたしは幼い頃に母を失いました。母と離婚した父が私を連れ出したから」
「ふむ」
「父はわたしの手を引いて、どこかの山の中を歩き続けたんです。疲れたわたしがもう動けないって駄々をこねたら、水を汲んでくると言ってわたしを置いてどこかに行ってしまいました」
「な! それは」
「父は、邪魔になったわたしを捨てるつもりだったのでしょう。わたしも、父が戻ってこないということをどこかで悟っていたような気がします。でも……」
「ええ」
「絶望に打ちひしがれてしゃがみこんだわたしの目に、水上の森が見えたんです。確かこんな風な」
「季節は冬、か。ずいぶんとむごいことを」

 しばらく押し黙っていた橋口さんが、小声で尋ねた。

「折原さん。どうして水上の森を撮られるんですか?」
「ははは。聞かれると思ってました。好きだからです」
「好き……ですか」
「ええ。水に映る森は頭上に実在するもの。架空の存在ではありません」
「はい」
「でもね、実物の鏡像でもないんです。それは影だ。歪んだ影。ぱっと見、とても森には見えない。森にするには、それを画から引っ張り出す必要があるんです」
「引っ張り出す……ですか」
「あなたが見出した水上の森も、きっとそうでしょう。現実がどんなに絶望的であっても、一枚の葉の上にすら現実とは別の世界がある。その世界をどのように名付けてもかまいません。想う人の自由ですから」
「……ええ」
「今ここにおられるということは、あなたは水上の森の存在を心から信じたのでしょう。そこでなら、自分が自分でいられる。今在る世界が全てではないってね」






 山中に置き去りにされた橋口さんは、犬を連れた猪狩りのハンターに発見され、無事に下山できたそうだ。娘を置き去りにした父親は山中で縊死していたという。自分と娘の将来をひどく悲観し、思い詰めてしまったのかもしれない。
 救助された橋口さんは父方の叔父に引き取られ、地元の大学を卒業した今春から市役所で働き始めたのだとか。

 彼女に足りない華は、過去の傷がまだ克服できていないことの現れなのだろう。それでも、最悪の過去をここまで盛り返したバイタリティがあるんだ。大丈夫だよ。

 水上の森の画像はさすがに広報誌向けではないと思い、気に入ってくれたのなら差し上げますとファイルをコピーして渡した。

「私が水上の森と言うとね。百人が百人、そこで話を打ち止めにしてしまうんです」
「ええー?」
「画像ってのはそんなものですよ。印象だけなら、私のよりもずっときれいにアーティスティックに撮れる人は山のようにいますから。だけど、たとえプロカメラマンでも私の水上の森は再現できない」
「わかります」

 彼女はうっすら笑った。

「創らなければならないから、ですね」
「ははは。そうです。で、もし創れた人がいても、その森は私の森とは違う。違うんです」

 ノートパソコンをぱたんと畳み、目をつぶってどこまでも続く広大な森林を思い浮かべる。落ち葉の上の小さな水溜りには、現実の森の破片しか映らない。しかしそのわずかな破片が、無限に広がる水上の森を築き上げるのだ。

「私の森は、あくまでも私だけのものです。それを誰かに分け与えることはできない。ですから、あなたはあなたの森を創ってください。あなただけの、水上の森をね」





Little Forest by Yanagi Nagi


《 ぽ ち 》
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