桜と幽霊 -レンタル屋の天使3-

後章 幽霊探し


第10話 深夜の捕物(2)


「めーちゃんの場合、脱出直後が天国だった。だから舞い上がった天上界から少し降りただけで、見えるものがくすんで感じる。それだけだと思うよ」
「えー? ルイは違うの?」
「私の時はそんなに甘くなかったよ。外に出た途端に大嵐だもん」
「……何があったの?」
「最初に出会った現実が、わいじーだったからね」
「うわあ」

 信じられないという顔で、めーちゃんがのけぞった。

 めーちゃんは、レンタルショップで柳谷さんが丈二さんと激しくやり合ったことを鮮明に覚えているはず。体格差があるのに怯えることなく、したたかにギャラリーを味方につけ、どこまでも筋論を押し通して相手を追い込んでいく。真正面から相手にするのがものすごく大変な人だ。
 私がなんとか柳谷さんをあしらえたのは、植田さんのカウンセリングを通して心理戦に慣れていたこともあるけど、何より時間制限があったからだ。もしリミットなしの舌戦だったらひたすら逃げるしかなかったかもしれない。最初のハードルが一番高かった分、そのあとはだんだん慣れて楽になったんだ。

 めーちゃんの場合は逆。世界全部が敵になるはずだったのに、私、岡田さん、店長とサポーターがどんどん増えて、最後は松橋さんという最強のナイトが付いた。私以外のサポーターが引いたことで、急に現実の黒さが目に付くようになったんだろう。

 そうさ。不安という名の幽霊はいなかったんじゃない。最初からずっといた。幸福感の陰に隠れていたから気づかなかっただけだよ。

「さて。迎撃体制を取ります。めーちゃんと佐々山さんは部屋での待機をお願いします」
「わかったー」
「お世話になりますね」

 スマホを出して、二人にかざす。

「幽霊がバスルームに入った時点でメッセを流します」
「了解!」

 二人が部屋に引き上げて、リビングが静まる。

「うーん……」

 テレビは要らないって言ったけど、こういう時は何か生活音を出す物体があった方がいいんだよあ。今後の検討課題にしよう。

「さて、と」

 灯りを消して待ち伏せするまでには少し時間があった。その間にテーブルの上でトゥドゥノートを広げて、対応済みの部分に赤線を引いていく。

 今日一日で、大きな進展がいくつもあった。魚住さんというご近所さんが増えた。自治会参加を決めた。ゴミ処理に目処が立ち、佐々山さんの庭の干し場を使わせてもらえることになった。
 佐々山さんには、茶論セピアという交流場を教えてもらった。そこのマスターに座卓をなんとかしてもらえそうだ。

「佐々山さんじゃないけど、まさに一日でぱあっと世界が広がった感じだなあ。これで幽霊が人に戻ってくれれば最高なんだけど……」

 まあ。私一人でどうにかする話ではない。きっとなんとかなるだろう。

「あとは入学式前に一度大学構内を下見して、荻野にはないお店屋さんを探しておく、だな」

 メモ帳の上にシャーペンを置いて考え込む。まだ……ちっとも実感が伴わない。合格が決まった時の方がずっとリアリティがあった。前沢先生とのシェア解消っていうアクシデントがあったにせよ、大学生活に向けての地ならしは着々と進んでいる。もっとわくわく感があってもいいはずなのに、いつまでも足元がふわふわしていて、思考が現実に着地してくれない。

 鶏小屋を出てから学生としての新たな日々が始まる間のクレバスに、いつの間にか落ち込んでしまっている。前も後ろも現実との間が切れていて、ものすごく狭い隙間から悄然と空を見上げているような。ぽつんと、一人きりで立ちすくんでいるような。

「ふううっ」

 さっきめーちゃんが言った、自分の世界の大きさ。そうさ、ひとごとなんかじゃない。私だってわからないんだ。どこまでが現実でどこからが彼岸なのかがちっともわからない。だから……自分は幽霊じゃないのかって疑ってしまうんだ。実体も存在感もない、幽霊じゃないのかって。
 望まない孤立が現実世界になってしまい、すがるように私にアクセスしてきたトム、ユウちゃん、前沢先生。きっと……私が今感じている不安も彼らと同じ種類の焦燥なんだろう。自分が誰からも見えない、見てもらえないんじゃないか。そういう焦り。

「だめだあ。考えがどんどんネガに落ちるー」

 今日広がった世界のように。手を伸ばせば届くところに、いくらでもカラフルな現実はある。自分で巡らせてしまったしょうもない障壁のせいでよく見えない部分はあるけれど、それなら見える位置に動けばいいだけ。自縄自縛を克服しない限り、私は幽霊のままだよね。

「桜にすら負けてるようじゃ、情けないよな」

 一つずつ。手の届くところを現実に変えていくしかない。だからまず、捕物を成功させよう。
 スマホで午後十一時を過ぎたことを確認し、リビングの灯りを消して廊下に出る。自室のドアを一度開け閉めして出入りを偽装し、半開きにしてあったリビングのドアをこっそり開けてスマホのライトを頼りにカーゴスペースの手前に行く。しゃがんで段ボールの壁に身を隠し、ライトを消して、と。あとは三村さんの登場を待つだけだ。
 怖さは全くなかった。ただ……どうしようもなく悲しかった。私が出たくても出られなかった忌まわしい鶏小屋を、自らこしらえて立てこもってしまう三村さんが。どうしようもなく悲しかった。

 と、私が待ち伏せを初めて五分もしないうちに気配を感じた。

「あれ?」

 ずいぶん早い……というか早すぎるような。それに全く音がしない。ほの白い人の気配が一瞬現れてリビングを横切った。

「リビング? バスルームじゃなく?」

 戸惑っていたら、そのあとすぐに床板を持ち上げるぎっという軋み音がした。小柄な人影がのろのろと体を床の上に持ち上げ、抜き足差し足でバスルームに。音を立てないようそうっとドアを開けた人影は、バスルームの灯りをつけず中に滑り込んでいった。

「捕獲、と」

 今か今かと待ち構えているであろう二人にメッセを流す。

『バスルームに入りました』

 ここまで来れば、もう息を潜める必要はない。段ボールの壁を片付け、リビングの灯りをつけて二人を招き入れる。
 ほぼ同時に、少し離れたところから賑やかなパトカーのサイレンが響き始めた。やれやれという表情で佐々山さんがスマホを掲げた。

「やっぱりかつての家に侵入を図ったみたいね。住居侵入の現行犯で捕まったって。うちに跳ねなくてほっとしたわ」

 向こうは派手な捕物になったのかもしれない。それより、こっちのけりをつけなきゃ。
 いつの間にかリビングに灯りと人の気配が充満していて、出るに出られなくなったんだろう。ドアの前で立ちすくんでいる人影が一つ。その人に向かって、佐々山さんが声をかけた。

「三村さんでしょ。もう無理だってば。出てきなさい」

 果たして。濡れ髪もそのままにこそっとドアを開けたのは、ものすごく貧相な痩せこけたおばさん……三村さん本人だった。









You're Under Arrest by Serge Gainsbourg


《 ぽ ち 》
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