《ショートショート 1396》


『群れ泳ぐひれ』


「こんな……こんな光景が実際にあるんですねえ」
「びっくりだろ?」
「ええ」

 薄く濁った水面近く。そこにひれだけが群れ泳いでいた。魚体はない。ひれだけ。
 案内してくれたアンディさんはがっちり腕を組んだまま、水面を凝視している。ひれの向こうに何があるのかを、確かめようとするかのように。

 私は、ひらひらと優雅に翻るひれの群泳を飽きることなく見渡していた。




(ニクウスバタケ)



「こいつらに、いつ気づいたんですか?」

 黙り込んでしまったアンディさんの意識を此岸に引き戻そうとして、大きめの声で話しかける。視線も姿勢も動かさず、アンディさんが口だけをぎしりと動かした。

「三年前かな」
「突然現れたんですか?」
「わからない。ここに毎日来ているわけじゃないからね」
「そうですか……」

 周囲をぐるりと低い岩体で囲われた浅い湖。その光景はさながら陸の環礁だ。湖岸部分には葦のような草がびっしりと生い茂っているが、魚影は全く見られない。水鳥や水棲昆虫の姿もない。音や動きの乏しい静かな湖だ。
 湖岸に屈んだアンディさんが、手のひらに水をすくい取る。

「源水が湧き水だから水はきれいなんだ。ただ、水平方向の水流がないに等しいから、腐植と底泥が湧き水で巻き上げられて水が濁る。こんな風にね」
「そうか。溜まり水ではないんですね」
「厳密に言えば、ね。水は、あちこちにある岩の割れ目(クラック)から排出されているらしい。蒸発して抜けていく方が多いのかもしれないが、私は研究者じゃないからね。水の挙動を科学的に詳しく調べているわけじゃないんだ」

 群れ泳ぐひれにゆるくかき回される水面を指差し、アンディさんが静かに話を続けた。

「アジラ湖は、最深部でも水深が1メートルに満たない浅湖だ。湖というよりは沼に近い。高緯度や高標高の寒冷地じゃないし、水の流れが極めてゆるやかで水辺植物も多いから富栄養化しやすいはずなんだが」
「濁りはありますけど、腐水ではないですよね」
「色がついているだけで、水自体はきれいだよ。富栄養どころか、むしろ貧栄養だ」
「じゃあ、源水になにか原因が?」
「おそらくそういうことなんだろうな。だが水をいくら調べても、特殊な要素は何一つ出てこない」

 それきり黙り込んでしまったアンディさんが、ゆっくりと立ち上がった。

「この湖の側に土地を買って、別荘を建てた。今から十年ほど前かな。この湖に大型の生物がいないことは最初から知っていた。熱心な科学者やネイチャリストならともかく、釣りや鳥撃ちに興じる人はここには住まないよ。閉鎖湖の景色はおもしろいが、変化しないものにはすぐ飽きるからね」
「ええ」
「私は騒がしい環境が苦手でね。だから、あえて退屈な場所に別荘を構えたんだ」
「それなのに、急に騒がしく」
「そう。こいつらのせいでね」

 諦めたようにアンディさんが湖面を指差す。相変わらず優雅に、ひれだけがひらひらと水面を揺らしていた。

◇ ◇ ◇

 私の中で、虚実二つの光景がゆっくり符合し始める。まだかすかに残っているずれが擦れ合い、声となって口から押し出された。

「あの、アンディさん」
「なんだい?」
「このひれも不思議なんですが、私がここにたどり着いた経緯も不思議なんですよ」
「ほう?」

 単なる興味本位でここに来たわけではないことを知って、アンディさんの意識がやっと私の方に向いてくれた。

「アンディさんは、ひれの存在に三年ほど前に気づいたと言われましたよね」
「ああ」
「十年前から住んでいて、ひれの存在には三年前に気づいた。じゃあ、それまでひれはここになかったのか、あったけれど潜んでいたのか。疑問に思いませんか?」
「……ああ」

 ゆっくりと湖面のひれを指差す。

「あのひれ。私にはずっと前から存在していたんですよ」
「どういうことだい?」
「私は十年前から、あのひれの夢を見始めたんです」
「夢?」
「ええ。それを夢と呼ぶかどうかはとても難しいですけど」
「どうして?」
「あまりに映像がリアルだからです」

 ふっと私から目を逸らし、アンディさんが湖面のひれを目で追い始めた。

「夢に出てくるのが人間であれば。人間でなくとも、それが毎回変われば。どんなに奇妙な夢であっても、すぐ忘れてしまうか、既存の記憶にリンクして納得してしまうでしょう。でも、夢で見るものは毎回同じ。私の視点は変わりますが、群れ泳ぐひれの光景は鮮やかでいつも同じなんです」
「その夢は、毎日見るのかい?」
「いいえ。年に数回ですが、あまりに鮮明なので見た印象が薄れないんですよ」

 夢の中の光景と目の前のひれの群舞がぴったり重なり合う。寸部の隙間もずれもなく、ぴったり。

「私には、夢の光景が実在しているのか単なる夢想や幻影なのかの見当がつきません。実在するのであればおそらく日本の光景ではないとあたりをつけて、夢と似たような景観を持つ浅湖を探していたんです」
「これまでずっと?」
「いいえ。日本の光景でない以上、私は現地の人とコミュニケーションを取る手段を先に確立しなければなりません」
「それで英語を学んだ、ということか。とても流暢だね」
「ありがとうございます」

 時折ゆったりと方向を変えるひれを。そのひれが起こす不定形の波紋をじっと見据える。

「英会話の習得と渡航費用の確保。それが叶う年齢になっても、肝心の場所が特定できない。じりじりしてたんですが」
「三年前に、ここが話題になったということだな」
「はい。ネットにアップされた映像は、私の夢の中の光景と一致していました」

 ちらりと横目で私を見たアンディさんが、湖面のひれに視線を戻した。




(チャウロコタケ)



「どうしてすぐに来なかったんだい?」
「怖かったんですよ」
「怖かった……か」
「はい。夢の中のひれは何も言いません。今、目の前のひれが何も言わないのと同じです」
「ああ、分かる。意味を考えてしまったということだな」
「はい。この光景を目にした人も、同じ恐怖に囚われたんじゃないでしょうか」
「そうだね」

 ひれの上に重荷を返すようにして、手のひらを開いたまま腕を伸ばした。それから、一つずつ指を折ってゆく。

「啓示なのか。警告なのか。示唆なのか。兆候なのか。そして……予知の先鞭なのか」
「ふむ」
「夢も今の目の前の光景も、単なる景色にすぎません。でもひれだけが、どうしても景色の位置まで下がってくれない」

 黙って私の話に耳を傾けていたアンディさんが、小さく頷いた。

「ここに押しかけてきた大勢の野次馬と研究者は、結局君と同じように感じ、怖じけついて引いたってことか」
「私はそう思います」

 伸ばしていた手をゆっくり下ろし、微風でさざめく湖面をゆっくり見渡す。

「見えない部分をいたずらに膨らませてもしょうがありません。夢と現実が整合したので、私がひれの夢を見ることはもうないでしょう。それでいいのかもしれません」

 アンディさんが、慎重に私に尋ねた。

「一つ、聞かせてくれないか」
「はい」
「君は……ひれの正体がなんだと考えている?」
「ははは。そんなのわかりませんよ。でも」
「うん」
「このひれの本体が湖そのものだとすれば」
「おっ!」

 湖面に向かってぐんと身を乗り出し、アンディさんが改めてひれを凝視する。

「ここに封じられて動けない巨魚が、閉ざされた世界からの脱出を夢見て誰かの夢とシンクロすることがありうるのかなと」
「スケールが大きいなあ」
「あくまでも私の想像です。私は、夢のひれが実体と一致したということだけでいい。それだけで満足です」
「なるほどね」

 うっすらと笑ったアンディさんが、私の肩をぽんと叩いた。

「君は……興味本位で騒いだ連中とは根本的に違う。せっかく遠いところからここまでたどり着いてくれたんだ。もう一つくらいは思い出を持って帰ってくれ。別荘でコーヒーでも飲もう」
「ありがとうございます。ごちそうになります」

 湖面に背を向け、肩越しに振り返る。俺も連れて行ってくれよと言わんばかりに、たくさんのひれがひたひたと湖面を波立たせていた。

 私は……これからどうしようか、どうすればいいのかを決めかねて目をつぶる。群れ泳ぐひれは、閉ざしたはずの視界の中にも泳ぎ渡ってくる。

 ひたひた、と。





Feet-like Fins by Cocteau Twins


《 ぽ ち 》
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