《ショートショート 1394》


『血痕』


「こちらです」
「ほう」

 不動産屋のあんちゃんが、古い建物には似合わないぴっかぴかのキーを鍵穴に突っ込んでがちゃりと回し、ドアを引き開けた。すぐに、リフォームされた部屋独特の工事臭がぷんと漂ってくる。
 こらあ、俺にはちと出来過ぎの部屋だなあ。思わず苦笑したら、あんちゃんが不安そうに聞いた。

「どうでしょう?」

 俺は部屋に過大な期待を寄せたことはない。部屋に求めるものが最低限の快適さだけだからだ。ぶっちゃけて言えば、吹きさらしの公園のベンチよりましならそれでいい。部屋の「現在」が快適さの最低ラインをクリアしてさえいれば、それ以上のことは何も望まないんだ。
 だからあんちゃんが案内してくれたこの物件は、俺にとって特上に近かった。

「すごくいい部屋じゃないか」
「そうですか! 高く評価してくださって嬉しいです」

 あんちゃんがほっとしたように部屋をぐるりと見回した。確かに築年は行っているが、きれいにリフォームされていて、古かろう悪かろうではない。素っ気ないのは部屋がくすんでいるからではなく、住人がいないからだ。あとは住んでるやつが好きに染めてくれってことだろう。
 俺の評価ポイントは、部屋の新しさやデザインにこだわるやつとコンセプトが違う。駅近で買い物施設やコンビニがすぐ近くにあり、その割には家賃が安くて静か。それだけで十分なんだよ。

「なあ、木平さん。ちょい聞きたいんだが」
「はい」
「ここの前住人は女性だって言ったよな」

 やっぱり来たかと言わんばかりに、あんちゃんがきゅっと肩をすぼめた。

「ええ」

 隠してもしょうがないと思ったのか、溜息とともに事実がぽいっと放られた。

「年配の方です。ここで亡くなられてます」
「ああ、孤独死かい」

 俺が特に感情を込めずさらっと言ったことに驚いて、あんちゃんがじりっと後ずさった。

「そ、そうです」
「なるほどな。事故物件だから相場よりずっと安いってことか」
「……はい」
「俺はそういうのは一切気にしない。気にするのは、この部屋の上下左右さ。過去より今の方がずっと厄介なんだよ」
「え?」
「そりゃそうだろ。幽霊なら無視すればいいが、生身の連中は始末に負えん。非常識なやつや病んじまった系と絡めば、いくら家賃が安くたって面倒でかなわん」
「それなら心配ないですー。ここは六室ある中の上の真ん中なんですが、すぐ下と両隣は空室なんです」

 まあ……そうだろな。古い上に曰く付きじゃ、いくら安くてもそうそう借り手が現れんだろ。

「そりゃあ助かる」

 俺が契約に前向きだということを感じ取って、俄然あんちゃんが張り切った。

「不備や問題点がございましたら、ぜひお聞かせください。当社で対応できそうなことなら善処いたします」

 確かにそうだ。リフォームってのは化粧で、皮膚の下の骨や筋肉までリフレッシュしてくれるわけじゃないからな。
 あんちゃんの提案を受けて、部屋をじっくり精査することにした。で、すぐに見つけちまったんだよ。厄介なものを。

「血痕だあ?」




(ヒイロタケ)



 床が張り替えられ、壁紙も一新されている。シンクやトイレ、バスもきちんと整えられている。古女房の厚化粧みたいなもので、過剰なリフォームと言ってもいいくらいどこもかしかも新調され、ぴっかぴかだ。
 だからこそ、窓際の床にぱたぱたと落ちていた血痕はどうしようもなく奇異だった。

「ひゃああっ」

 真っ青を通り越して土気色になったあんちゃんの顔を見て、思わず苦笑する。

「おいおい、リフォームが終わったあと、ちゃんとチェックしてなかったのか?」
「いえ、チェックしてます。その時にはこんなものは……」
「ふうん」

 あんちゃんの言葉に嘘がないとすれば、だ。リフォームが終わって仕上がり確認を済ませ、施錠したあとで誰かが部屋に入り込んだってことになる。
 俺と同じ心配をしたんだろう。あんちゃんが首を傾げた。

「おかしいなあ。この部屋の鍵はリフォーム作業が終わった後で換えてるんです。当社の社員以外は誰も入れないはずなんですが」
「リフォーム後に、この部屋を見に来たやつが他にいた?」
「いいえ、細野さんが初めてのお客さんです」
「ふむ。それまでは密室、か」

 誰かが忍び込んでやらかしたにせよ、理屈では説明できない怪異現象にせよ、この部屋にとってのプラス要因には決してなりえない。
 半ば諦めたんだろう。あんちゃんが、大きな溜息とともにぱたぱたと散っている血痕を力なく見下ろした。

「警察……呼ばなきゃ」
「ああ、そんなことはしなくて大丈夫だよ。こらあ鼻血だろう」
「え?」

 きょとんとしているから、まあ座れと手で促した。

「俺にとっては大したこっちゃない」




(ネンドタケ)



 床にあぐらをかいて、血痕を見下ろす。リフォーム後についたものだが、それほど新鮮ではない。量的にも知れている。ぱたぱたぱたっと落ちたって感じだな。吹き出した、吐出した、派手に飛び散ったという量や散り方じゃないんだ。

 血というだけで最悪なことを想像しちまうのはこの部屋の履歴が履歴だからで、前歴による思い込みをどかせば冷静に考えられる。
 密室云々というのも同じさ。何か深刻な犯罪に絡んでいるならともかく、がらんどうの部屋に厄介ごとの現場になる要素はなにもない。冷静に、誰がここに入れたかというところから組み立ればいい。

「木平さん。今は空きになっている下の部屋だが、住んでいたのはじいさんかばあさんじゃなかったかい?」
「あ、そうです。この部屋におられた方と同年輩のおばあさんでした」
「なるほどね。で、ここの住人が亡くなってすぐ退去したってわけでもないだろ?」
「あ、はい。リフォームが終わってしばらくしてから、かな」
「ははは。それはおかしいよ。縁起を担ぐ人なら、すぐに出る。つまり下のばあさんは、本当は動くつもりがなかったんだ」
「え?」

 鳩が豆鉄砲食らったような顔をしているな。

「長い間住んでいたってことはすでに自宅扱いさ。年行きゃあ、次の物件はなかなか見つからない。よほどのことがない限り、何があってもここにしがみついてたはずだ」
「そうなんですか!」
「ああ。それなのに、ここをそそくさと離れてる」
「……」

 あんちゃんがじっと考え込んだ。

「たぶん。リフォームできれいになったところが今住んでるところとどのくらい違うのかを、下のばあさんがこっそり確かめにきたんだよ」
「あっ!」
「亡くなったばあさんと、合い鍵を預けっこしていたんだろ。互いに、何かあればよろしくってね」
「そうか……」
「下のばあさんは、きれいな部屋に同じ家賃で入れれば、こっちに住み替えようと思っていたはずさ」

 年ぃ取れば縁起がどうのこうのなんて一々考えないよ。言っちゃ悪いが、逆に現実的になる。仲だって、近所付き合いの範囲内だったはずだ。

 あんちゃんが首をひょいと傾げた。

「あのー、そのことと血痕とどう結びつくんですか?」
「下のばあさんはアレルギー持ちだったと思うぞ。溶剤アレルギー」

 なんとなく話が見えたんだろう。あんちゃんがふっと息を抜いた。

「合鍵を使ってこっそり見に来たのはいいものの、リフォーム作業で部屋に充満していた接着剤や塗料の溶剤にあたってのぼせた。窓を開けて換気しようとしたが、へたをすると空き室に勝手に入り込んだことがバレてしまう。どうしようかまごまごしているうちに鼻血を垂らしてしまい、慌てて逃げ帰った」
「で、鍵が交換されたから持ってる合鍵が使えなくなり、後始末できなくなってしまったということですね」
「それだけじゃない」

 今度は俺がふっと息を抜く。緊張が解れたからじゃない。下のばあさんが気の毒だったからだ。

「上の工事の影響が下にまで及んだんだろう。自分の部屋でも溶剤の影響を受けるようになってしまったんだよ。アレルギーってのは、一度症状が現れるとしばらく反応が強く出るからね。退去したかったんじゃなく、退去せざるをえなくなった。俺ならそう見る」
「うわ、そっか」

 同じ家賃できれいな部屋に住めるかもしれないという夢が、自分の部屋にすら住めなくなるという地獄絵図に変わったんだ。やりきれんだろうなあ。

「俺はそっち系のアレルギーはない。新しくて快適だし、立地も住人環境も家賃も魅力的だから契約する」
「ありがとうございます!」

 あんちゃんにとっては地獄から天国へ、だろうな。下のばあさんとは逆だ。じわっと苦笑しながらきれいな部屋を見回す。
 重大な事件や事故に関わっていなかったとは言え、下の婆さんにとってはとんだ災難だろう。たかが血痕、されど血痕ということか。

 俺がじっと血痕を見下ろしていたことに気づいて、あんちゃんが慌てて俺の意図を探った。

「拭き取りましょうか?」
「ああ、俺があとで拭いとくから気にしないでいいよ。それより」
「はい」
「空き室にも時々風を通してやらないと。何が住み着くかわからないぜ」

 俺が幽霊の真似をしたのを見て、あんちゃんがぶるぶるっと縮み上がった。

「ひいいっ」
「はははっ。俺は退屈しなくていいけどな」



 追記:
 えとわ第1015話の『はこべと事故物件』に登場した細野さんです。(^m^)
 そちらも併せてお楽しみください。







The Beach At Redpoint by Boards Of Canada


《 ぽ ち 》
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