第三部 最終話 真実とへっぽこ
(4)
俺は契約書を作ろうとしたんだが、逆城さんはその時間を待っていられないようだった。まとまった枚数の諭吉さんが入った茶封筒を机の上に置き、ここから必要な分を取っていただければと言い残してすぐ席を立った。立った……が。歩けない。俺は逆城さんをもう一度着席させてタクシーを呼んだ。
「お宅まで送りましょう。しんどそうだ」
「恐れ入ります」
逆城さんは俺の提案を拒むことはなく、俺に背負われて事務所を出た。
着いたタクシーに一緒に乗り込み、保険証に書かれていた住所をタクシーの運ちゃんに示して車を出してもらう。逆城さんは、ぎゅっと口を結んだまま一言も発しなかった。
タクシーは、見るからにおんぼろのアパートの前で止まった。俺は逆城さんを抱えて車から降り、逆城さんから鍵を預かって解錠した。ドアを開いた俺の目の前に、想像を絶する光景が飛び込んできた。
ぼろアパートの汚れた室内がきれいに見えるほど、何もない。段ボール箱が三つ、四つ。敷かれたままのせんべい布団。あとは……何もない。そして、布団の周りには湿布薬のようなものが散らばっていた。
「……」
癌疼痛を抑える強力な鎮痛剤、だろう。この状態でどうやって事務所までたどり着けたのか、それが不思議に思えるくらいの衰弱ぶりだ。俺は、すえた臭いの漂う布団の上に逆城さんをそっと横たえた。
「お世話を……かけました」
「いいえ。できるだけ早くご報告いたしますね」
「よろしくお願いいたします」
それきり。目を閉ざした逆城さんの口が開くことはなかった。命を賭した外出で、残っていた全精力を使い果たしたのだろう。すぐにかすかな寝息が聞こえてきた。
◇ ◇ ◇
逆城さんが受診していた病院を探し当て、病状と逆城さんの身上を聞き出した。逆城さんは、金がないという理由で入院していた病院から自室に戻っていた。実際には、とても動けるような病状ではないらしい。
とても温和な人で、病院ではトラブルを起こしたことがなかったそうだ。ただ、身上は気の毒だった。訳あって離婚し、自宅を奥さんに明け渡したあとは、簡宿やぼろアパートを転々としていたらしい。担当だったという看護師さんが、最後まで彼の容体を案じていたのが印象的だった。
病院での聞き取りを終えて事務所に戻ってすぐに、船井さんのところに電話を入れた。うちと同じ小さな探偵事務所なんだが、うちとは運営ポリシーが異なり素行調査専業。家出人や消息不明者の探索を一切請けていない。被調査者の所在が明らかな素行調査と違い、人探しはストーカーやDV加害者に悪用されるリスクがあるからだ。
船井さんの運営方針の是非についてとやかくいうつもりはない。俺だって、特殊事情さえなければ船井さんと同じように依頼を断ったはずだからな。ただ俺は、船井さんがなぜあの老人に俺を紹介したのか、理由を確かめたかったんだ。
「ああ、船井さんですか? 中村ですー。ご無沙汰しています」
「じいさんが一人、そちらに向かったはずです」
俺が聞く前に、船井さんが逆に切り出した。
「なぜ私のところに?」
「あの様子だと、行けてあと一件。でも、どこでも断られますよ」
「私なら請けると?」
「断られたんですか?」
苦笑するしかない。おそらく沖竹所長の筋だろうな。同業者の誰もが断る依頼でもあいつなら最後まで粘る、所長はきっとそう言ったに違いない。俺はよそから難題が回されてくることを承知の上で独立したし、実際どんな難題であっても門前払いしたことは一度もない。だが……これはないよ。思わずこぼした。
「えげつないなあ」
「済みません。幾重にも謝罪いたします。でも」
ふっ。小さな吐息の音とともに、切ない理由が耳に押し込まれた。
「うちは人探しはやってないから他に行け。それだけなら、世の無情を恨みながら彼岸に旅立たれることになる。私は、そこまでビジネスライクになれなかったんです」
なるほど。決してたらい回しではなかったんだな。時間のかかる人探しを限られた日数で完了してほしい。その条件は俺らにとっては非常識だが、依頼人に残されている時間を考えれば当然なんだ。そういう事情を勘案した上で紹介したということなんだろう。
「事情はわかりました」
「請けたんですか?」
「請けました。明日報告します」
「えっ!?」
船井さんが絶句している。
「そんなに早くわかるものなんですか?」
「偶然ですけどね。私は被調査者をよく知っているので。ただ」
「はい」
「どう報告するかが大問題なんです」
「なるほど」
同業者だ。俺の言葉の裏は読んだんだろう。船井さんは、神妙によろしくお願いいたしますと言い足して、それ以上余計なことは何も詮索せずに電話を切った。
「ふうっ」
Dare To Say by 岩崎太整
《 ぽ ち 》
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