《ショートショート 1303》


『崖』


 崖の上に立って下を見下ろせば、自分が落ちてしまうかもしれないと足がすくむ。
 崖の下に立って上を見上げれば、こんな切り立ったところを登れるはずがないと足が止まる。
 だが。崖を落ちている間は落ちている自分しか見えない。崖なんか意識しないんだよ。

 崖ってのは、そういうものさ。

◇ ◇ ◇

「崖っぷち、ですか」
「いや淵じゃない。もう崖を落ちてる。真っ逆さまだ」

 社屋の屋上。からりと晴れ上がった気持ちのいい青空を見上げていた初老の男は、好天とは対照的に険しい表情を崩さなかった。その顔を困惑気味に見ている若い技術者が、小さく息をついて空を見上げた。

 どこまでも広がる青空。そこには崖をイメージさせるようなものは何もない。手すりの向こう、十数メートル下の地面を見下ろさない限りは。だが、初老の男の目が地面に落ちることはなかった。その目はずっと青空に釘付けになっていた。

「今は飛翔してるんじゃない。崖を落ちてるんだよ」




(ヤブガラシ)



 村西が頑固一徹の昔気質の職人ならば、上層部が守旧にこだわる村西を嫌うのはわかる。だが、村西は理論派だった。これまで社が時代変化の大波をかいくぐって生き延びてきたのは、村西を始めとする技術スタッフに先見の明と確かな見識があったからだ。

 出世欲のない村西は、生産現場での品質管理を一貫して統括してきた。どれほど丁寧な作業を積み重ねても、製品として世に出たものに瑕疵があれば努力が全部水泡に帰す。それが村西の持論であり、村西が製品管理を統括していた間、大きなトラブルが出たことは一度もなかった。

 当然、その真摯な姿勢は若手工員の尊敬を集める。上級役員ではない村西が社内で存在感を保ち続けていたことには、合理的な理由があったのだ。
 エンジニアとしての村西の優れた資質は、他社から転職してきた本間にもすぐわかった。地位に恋々とすることもなく、統括という職務を鼻にかけたり振りかざしたりすることもない。実に理想的な上級エンジニア。それが村西から受けた印象だった。
 しかし、製品管理はあくまでもチェックが主務だ。製品の開発や販路開拓、ユーザーからのフィードバックによる旧製品の改良や改善……そうした部門とは一線を画していた。

 景気の浮沈に大きく左右されることなく順調に売り上げを伸ばしてきたが、社業は曲がり角に来ている。新規の製品開発を加速しよう。それが社長の判断だった。そんな社にとって、村西の厳しい製品管理が商品開発の迅速な流れをスポイルすることは決して望ましくなかったのだ。

 村西に対する不快感は、経営陣の顔ぶれが創業当初からの古株から次世代の生え抜き役員に一新された時点で突如吹き出した。企画開発から製品化までの時間を圧縮する現代の潮流に、村西だけが徹底的に逆らっているように思えたのだろう。村西に対して強い逆風が吹いた。偉そうにダメ出しするだけのじじいはもう出しゃばるな、と。

 五十五になった村西は、社長に呼ばれた。

「子会社に出向してくれないか」

 それは昇格の上限が決まっている社員に対するよくある転籍命令であり、対外的には何もおかしくはない。村西もごねたりはしなかった。そうですか、わかりましたと穏当に打診を受諾した……ように見えた。

 しかし。村西が社に提出したのは辞表だった。

「長い間、お世話になりました」

 圧力をかけて辞めさせたように思われるのは嫌だったのか、社長が慌てて村西を慰留した。

「いや、村西さんにはまだまだがんばってもらわないと」
「いいえ」

 それに対して、村西は薄く笑いながら答えた。

「我が社はすでに崖を落ちています。私は巻き添えを食いたくないので」




(シダレエンジュの果実)



 世話になったという挨拶とは裏腹の真っ黒な皮肉。しかも社の業績は順調なのに、なぜか的外れな警告だった。
 村西の当て擦りに社長がどれほど怒り狂ったところで、辞める人間に意趣返しをすることはできない。村西もそれ以上余計なことは言わず、淡々と退職の手続きを整えていった。

 村西を慕っていた数多の工員たちにとっても、退職は寝耳に水の事態だった。工員の中には社長をバカ呼ばわりする者もいたし、村西が何かしでかしたのかと裏の裏を探るものもいたが、真実は誰にとっても藪の中だった。
 村西との付き合いがまだ浅かった本間は冷静で、村西の決断に怨嗟が一切絡んでいないことを見抜いていた。崖を落ちているという村西の警告は皮肉や怨嗟ではなく、事実なんだろうと。

 その一方で、本間もまた他の工員たち同様どうにも解せなかった。社の業績は嘘偽りなく順調。財務にも全く問題はない。執行体制は社内でしっかり固められていて、ファミリー企業のような幹部同士のお手盛り弊害もない。崖を落ちるどころか、落ちることのできそうな崖すらないのに……それが本間の正直な感想だった。いや、本間だけではない。社内の誰もが、村西の警告を奇異で的外れなものと捉えたのだ。




(ヘクソカズラ)



 本間が村西を呼び止めたのは、村西の真意を確かめるためではなく、単に技術的なアドバイスを求めたからだった。村西もまた、本間の質問に丁寧に答えた。もう社を去る人間とは思えないほど、とても丁寧に。そのあと村西は、本間を屋上に誘い出した。

「ちょっといいかい?」
「はい、なんでしょう」
「置き土産だよ。誰にでもというわけにはいかないんでね」

 村西に付いて屋上に出た本間は、眩しそうに大空を見上げていた村西の口が開くのをじっと待った。そして、件(くだん)の崖の話を改めて聞かされた。

「なにもかも順調。それなのに私が崖を落ちているという話をしたから、違和感を覚えたんだろ?」
「正直に言わせていただければ」
「みんなそうなんだよ。君らだけじゃない。トップからボトムまで満遍なく、だ。それがどんなに異常なことか、誰も気づいていない」

 本間の脳裏にじわりと黒い染みが浮かび、それが徐々に広がり始めた。

「うちは、オーバークオリティじゃないかと言われるくらい製品品質にこだわり続けてきた社だ。当然、新しい製品の開発、生産、販売には他社よりコストも時間もかけている」
「存じてます」
「で、先代の社長まではその基本方針を決して曲げなかったんだよ」
「今は違いますよね」
「そう。ぶっちゃけて言えば今風になった。いたずらに製品のクオリティアップにこだわるよりも、時代のニーズにあったものを素早く開発し、一早く市場に送り込む。そういうスタイルにね」
「それでは、いけないんですか?」
「いいや、社会全体の流れがスピードアップしているんだ。潮流に乗れなければ沈没するから、我が社もがんばろう。今の社長の指針に大きな齟齬はないと思う」
「じゃあ、なぜ崖を落ちてるなんて……」
「他社の後追いをすると、ほとんどうまみがなくなるからだよ」
「あっ!」

 穏やかな顔で話をしていた村西の表情が一変し、般若のような険しい顔になった。

「確実性、堅牢性、耐久性。うちは、他社がコストカットするために犠牲にしてきた製品レベルを下げないことで、これまで生き延びてきた。その唯一無二の売りを自ら捨て去ったんだよ。じゃあ、それに替わって他社以上に利益を出せるアドバンスがどこかにあるか?」
「言われてみれば……」

 確かに製品は売れている。だが商品のラインナップがカタログ落ちする速度が異様に速くなっていた。本間もそれに気づき、漠然と不安を覚えていたのだ。

「うちが、ものすごくでかい企業だっていうなら別だよ。中堅の会社がコストカットのために委託生産メインに切り替え、製品チェックのレベルを下げれば、大手の後塵を拝するどころの話では済まない。雨後の筍の如く湧いて出る雑魚企業と同じレベルに落ちてしまう。そいつらとの競争にどうやって勝つんだ?」
「それ……社長には」
「ずっと言ってる。だが、社長は企画開発の強化で勝てると言い切った」
「……」

 フェンスを掴んでいた手を離し、村西が小さく溜息をついた。

「それだって、どこも同じことを考えるんだ。付け焼き刃じゃ無理だよ」




(ヘラオオバコ)



 村西が去ったあと。本間は日が落ちて真っ暗になってしまった屋上に一人残り、最後に村西が言い残していった警句の重さと恐ろしさを噛み締めていた。

「崖ってのは奈落と障害の象徴さ。いつでもどこにでも誰にでもある。落ちたくなければ用心すればいいし、越さなければならないならその方策を考えればいい。落ちない限り、崖は克服できるんだよ」
「ええ」
「でも落ちてしまったら最後、なんだ」

 村西が、大空を指さしながら訊いた。

「空には崖なんかないように見えるだろ?」
「そう思いますが……」
「人類は自力で空の高みに上がれない。崖はいつも目の前にそびえたっているんだよ」
「!」
「そして。崖を落ちているにも関わらず、多くの人々が勘違いするんだ。我々は今、空高く飛翔しているってね」





Even If the Sky Is Falling Down by Candelion


《 ぽ ち 》
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