《ショートショート 1274》
『花の鞠』 (はるのうた 13)
私の恋は、沈丁花の香りとともに始まった。
「香りはとても冷ややかで鋭いのに、花が小さな鞠みたいでかわいらしいでしょ? どちらのイメージが本物かしらって思ってしまうの」
「うーん、どっちも本物じゃないですかねえ」
隣を歩いている看護師の多田さんが、咲き誇っている沈丁花のピンクの鞠に顔を近づけた。
「そうかしら」
私がひょいと首を傾げたら、振り向いた多田さんも同じように首を傾げた。
「違うんですかー?」
「さあ。それはわたしの感じ方であって、合ってる間違ってるっていう話じゃないわよねえ」
どう答えたものかという表情で、多田さんが黙る。私は、多田さんの横顔を見ながら、沈丁花の鞠に手を伸ばす。
ほら、花には触れられるけれど、香りには触れられない。そのくらい、二つの印象にはくっきり違いがあるように思えるの。
「どっちも本物だとしたら」
「ええ」
「私の姿も、どっちも本物かしらね」
◇ ◇ ◇
私はこれまでずっと、冷酷で厳しい人だと思われてきた。私自身も、自分をそういう人間だとずっと思い込んできた。若い頃にはまだ無邪気に近寄ってくる人がいて、私もアプローチを拒んでいたわけではなかったけれど、彼らが私の側にとどまり続けることはついぞなかった。
誰かのために自分を取り崩すくらいなら、取り崩せないように自分をかちりと固めてしまった方がいい。それが私の生き方だった。これまでずっと。変わることなく。
しかし。どんなに自分を押し固めたところで、過ぎ去っていく年月は私から多くのものを勝手に取り上げる。それを、どうしても認めたくなかった。私が変わるのではなく、周囲が変化するのだ、と。私は、頑なに自分の変化から目を逸らし続けてきたんだ。
その反動は大きかった。老いが私から何もかも奪い去っていくのに、代わりに得られるものは何もなかったから。私はただ失うばかりだった。親兄弟と死別し、伴侶に恵まれることもなく、数少ない友人は減る一方。生活圏が縮むとともに人付き合いがこれまで以上に細り、それなのに体調だけは律儀に悪化する。
楽しいことなど何一つなく、頑なに守ろうとしていた自我ですらその中身がわからなくなっていた。
私は。自分自身すら否定したくなっていたんだ。
「花の鞠」
沈丁花の花に手を添え、それを讃える。
「かわいく咲こうとしてこんな形になったんじゃなく。この木にとって、一番いい咲き方がこういう形だったってことなんでしょうね」
「はあ」
多田さんが、どうも意味がわからないというように何度も瞬きを繰り返す。
「だったら」
「ええ」
「私もそうなんだろうと思ったのよ」
「沈丁花みたいってことですか?」
「そう」
かわいい花の鞠。その可憐さにそぐわない冷ややかで鋭い香り。それらを切り離したら、沈丁花ではなくなる。
私は、形を持たない鋭い芳香こそが私の真実だと思ってきた。花の色形なんかどうでもよかったんだ。でも、沈丁花から芳香を取り去ったら何も残らない。芳香だけがあっても、それが沈丁花に凝ることはない。アンバランスな取り合わせのように見えて、それらは不可分なんだ。
それならば。
私は何もかも含めて、自分を愛するしかないのだろう。崩れていく朽ち花も、薄れていく香りも、何もかも愛するしかないのだろう。沈丁花が沈丁花でしかないように、私も私でしかないのだから。
◇ ◇ ◇
最後の最後まで愛せるものは、結局自分自身しかないように思う。でも、愛せるものが何一つないよりはいい。
小さな花の鞠を見ながらわずかに笑みを浮かべ、多田さんにお礼を言う。
「病室に戻ります。散歩に付き合ってくれてありがとう」
「いいえー。沈丁花の次は連翹(れんぎょう)ですかねえ」
「連翹は咲き方がだらしないし、元気すぎて嫌い」
「はいはい」
Daphne by Joscho Stephan
《 ぽ ち 》
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『花の鞠』 (はるのうた 13)
私の恋は、沈丁花の香りとともに始まった。
「香りはとても冷ややかで鋭いのに、花が小さな鞠みたいでかわいらしいでしょ? どちらのイメージが本物かしらって思ってしまうの」
「うーん、どっちも本物じゃないですかねえ」
隣を歩いている看護師の多田さんが、咲き誇っている沈丁花のピンクの鞠に顔を近づけた。
「そうかしら」
私がひょいと首を傾げたら、振り向いた多田さんも同じように首を傾げた。
「違うんですかー?」
「さあ。それはわたしの感じ方であって、合ってる間違ってるっていう話じゃないわよねえ」
どう答えたものかという表情で、多田さんが黙る。私は、多田さんの横顔を見ながら、沈丁花の鞠に手を伸ばす。
ほら、花には触れられるけれど、香りには触れられない。そのくらい、二つの印象にはくっきり違いがあるように思えるの。
「どっちも本物だとしたら」
「ええ」
「私の姿も、どっちも本物かしらね」
◇ ◇ ◇
私はこれまでずっと、冷酷で厳しい人だと思われてきた。私自身も、自分をそういう人間だとずっと思い込んできた。若い頃にはまだ無邪気に近寄ってくる人がいて、私もアプローチを拒んでいたわけではなかったけれど、彼らが私の側にとどまり続けることはついぞなかった。
誰かのために自分を取り崩すくらいなら、取り崩せないように自分をかちりと固めてしまった方がいい。それが私の生き方だった。これまでずっと。変わることなく。
しかし。どんなに自分を押し固めたところで、過ぎ去っていく年月は私から多くのものを勝手に取り上げる。それを、どうしても認めたくなかった。私が変わるのではなく、周囲が変化するのだ、と。私は、頑なに自分の変化から目を逸らし続けてきたんだ。
その反動は大きかった。老いが私から何もかも奪い去っていくのに、代わりに得られるものは何もなかったから。私はただ失うばかりだった。親兄弟と死別し、伴侶に恵まれることもなく、数少ない友人は減る一方。生活圏が縮むとともに人付き合いがこれまで以上に細り、それなのに体調だけは律儀に悪化する。
楽しいことなど何一つなく、頑なに守ろうとしていた自我ですらその中身がわからなくなっていた。
私は。自分自身すら否定したくなっていたんだ。
「花の鞠」
沈丁花の花に手を添え、それを讃える。
「かわいく咲こうとしてこんな形になったんじゃなく。この木にとって、一番いい咲き方がこういう形だったってことなんでしょうね」
「はあ」
多田さんが、どうも意味がわからないというように何度も瞬きを繰り返す。
「だったら」
「ええ」
「私もそうなんだろうと思ったのよ」
「沈丁花みたいってことですか?」
「そう」
かわいい花の鞠。その可憐さにそぐわない冷ややかで鋭い香り。それらを切り離したら、沈丁花ではなくなる。
私は、形を持たない鋭い芳香こそが私の真実だと思ってきた。花の色形なんかどうでもよかったんだ。でも、沈丁花から芳香を取り去ったら何も残らない。芳香だけがあっても、それが沈丁花に凝ることはない。アンバランスな取り合わせのように見えて、それらは不可分なんだ。
それならば。
私は何もかも含めて、自分を愛するしかないのだろう。崩れていく朽ち花も、薄れていく香りも、何もかも愛するしかないのだろう。沈丁花が沈丁花でしかないように、私も私でしかないのだから。
◇ ◇ ◇
最後の最後まで愛せるものは、結局自分自身しかないように思う。でも、愛せるものが何一つないよりはいい。
小さな花の鞠を見ながらわずかに笑みを浮かべ、多田さんにお礼を言う。
「病室に戻ります。散歩に付き合ってくれてありがとう」
「いいえー。沈丁花の次は連翹(れんぎょう)ですかねえ」
「連翹は咲き方がだらしないし、元気すぎて嫌い」
「はいはい」
Daphne by Joscho Stephan
《 ぽ ち 》
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