《ショートショート 1217》


『葉影に混じる』 (夏の影 1)


夏の暑いさなかにひどく体調を崩すというのは、どうにも
情けない。

これまで、自分が年寄りだという意識はなかった。
実際の年齢よりずっとぴんしゃんしていると思っていたん
だ。
でも。いざ具合が悪くなってしまうと、若い頃のようなわ
けにはいかなかった。

まず、動けない。たった数歩の足が出ない。
家の中で老人が亡くなっていたというテレビ報道を見るた
びに、自分に限ってそんなことは絶対にありえないと鼻で
笑っていたのに。

歩くどころか、いざることも這うことも、ついでに言うな
ら寝返りを打つことすらできなかった。
自分の意思で動かせない体がどれほど厄介な重量物である
かを、骨の髄まで思い知らされた。

それでもまだ動かせるところがあったのは、不幸中の幸い
だった。私は声を出せたんだ。

うめき続けていた私の声が、たまたま通りかかった若い配
達員さんの耳に届き、救急車で病院に担ぎ込まれた私はか
ろうじて一命を取りとめた。

病名はなんと……熱中症だった。






「中野さん、気分は?」

「まだふらつく感じはありますけど、だいぶよくなりまし
た」

「気をつけないと。深刻な持病がないからかなり回復した
けど、命に関わる重症だったんだよ」

「はい……すみません」

先生のお小言が、段々きつくなってきた。
体の自由が利かない間はとても優しかったけど、回復傾向
がはっきりしてからはがみがみと説教ばかりが降って来る
ようになった。

「どれほど体のことを案じて忠告しても、これっぽっちも
聞きやしない。挙句に体を壊せば、今度は治せない薮医者
と減らず口を叩く。まったくどうしようもないジジババば
かりだ」

そこに勝手に私を入れないでよ!
これまでの私なら、むきになって言い返していただろう。
でも……今回ばかりは反論できなかった。
張る意味のない意地を張るのが年寄りならば、意地が張れ
なくなった途端にくたくたになるのもまた年寄りなのかも
しれない。

死ぬまで使うもんかと拒否っていた杖をつきながら、よた
よたと廊下を歩く。
トイレまでのたった十メートルかそこらが、この世の果て
に行くような永劫に続く距離に感じる。

ベッドに転がっている間は手足を十分に動かせない。
その間に削げてしまった筋肉をリハビリで戻さないと、ど
んどん体力が衰える。あとは地獄に真っ逆さまだよ。
先生の説明はお勧めではなく脅迫に近いなと思ったけれ
ど、事実としてそうなのだろう。






ふらつく感じはまだ残っているものの、ゆっくりであれば
生活に必要な範囲を歩いて移動できるようになり、なんと
か退院にこぎつけた。
そして私は、これまでと違ってものすごく用心深くなった。
椅子兼用になるシニアカートを必ず持ち歩き、どこに行く
にも水分補給と休息を欠かさなかった。

強制的にゆっくりにさせられた生活。
でもそこから、今まで見えなかったものが見えてきた。

買い物の時に通る公園のけやき並木の下。
これまで何千回行き来したかわからない。
だけど私は、道の先しか見たことはなかった。
せかせかと樹下を歩き過ぎることしか考えなかった。

頭上の賑やかな葉擦れの音やちらつく陽光を、眩しげに見
上げることもなく。
足元で不規則に揺れる葉影の遊びに、ずっと見とれること
もなかった。

今。時に押し戻され、私の足は自然に止まる。
顔は自ずと四方(よも)に向く。

何もかもを見境なく炙り立てる真夏の陽光を葉群が切り
取った黒い残滓。
その中に自分の濃く大きな影も混じっていて、葉とともに
頼りなげに揺れていることを。

何度も何度も確かめる。
確かめ続ける。

◇ ◇ ◇

今年の猛暑。
おびただしい熱気に煽られ続けていた私は、赤い回転灯の
光とサイレンの音で強制的にリセットされた。

そして今、いつの間にか私を追い越していった夏の背中を
目を細めてじっと見送っている。

葉影とともに、ゆったり揺れながら。





The Old Shade Tree by Chris Thile & Brad Mehldau


《 ぽ ち 》
 ええやんかーと思われた方は、どうぞひとぽちお願いいたしまする。(^^)/


にほんブログ村 小説ブログ 短編小説へ
にほんブログ村