第三部 第十一話 二択
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最悪だ……。ソフトからハードまでいろいろな事態を想定してあったが、いきなり刃物が出てくるなんてのは論外だよ。
駆けつけた警官を見た宝井さんはやっと恐怖から解放されたんだろう。パトカーの中で、これまでの経緯をちゃんと話しているようだ。それはよかったんだが、こっちが大ごとになっちまった。あの勢いでナイフを突き出されたら無傷では済まない。夏ちゃんの腹は血まみれ。俺は最悪の事態を覚悟した。でも……夏ちゃんはいててと言いながら自力で立ち上がった。
「夏ちゃん! 大丈夫か? 腹は?」
「ちびっと切れました」
苦笑した夏ちゃんが、シャツの下から雑誌を抜き出した。思わず腰が砕ける。
「はああっ……。プロテクターが入ってたか」
「所長に直に教わりましたから。紙の束っていうのは意外に刃物が貫通しにくいって」
あの時のことを思い出し、苦笑いする。
「まあな。でも、それは薄すぎだよ。アサ芸だろ? ジャンプくらいにしなきゃ」
「今度はそうします」
アドレナリン爆裂になっていた沢本さんだけど、犯人確保のあとでどっと反動が来たらしい。腰をとんとん叩きながら、しきりにぼやいた。
「年寄りの冷や水だなあ。あとで足腰立たなくなりそうだよ」
「すいません……でも、さすがですね」
「はっはっはっ! やっぱり血が騒ぐね」
久良瀬は、駆けつけた警官に手錠をかけられてもまだ興奮が収まらず、「ぶっ殺す」を連呼していた。それが自分の罪状にどれほど不利に働くか全くわかっていないという時点で、相当イカレてることがわかる。殺人未遂の現行犯で逮捕され、警察に連行されていったが、あのいっちまってるツラは二度と見たくない。
夏ちゃんは、刺された部分の傷なんか大したことないと言い張った。そうは行かないよ。久良瀬の立件にも関わるからね。それなりに出血していたのを理由にして、救急病院に連れて行った。事情聴取が一段落した宝井さんも付き添うと言ってくれたが、実のところは怖くて一人でいられなかったんだろう。
◇ ◇ ◇
久良瀬が振り回したのが安物のペティナイフだったということもあって、夏ちゃんの傷は刺創ではなく切創のレベルで済んだ。それでも、しなくていい怪我をさせてしまった責任は俺にある。何度も頭を下げて平謝りする。
「夏ちゃん、済まん。一番ハードなケースを想定しなかったわけじゃないんだが、本当に刃物まで出てくるとは思わなかったんだ。備えが甘かった。済まん」
「いえ……」
ベッドを取り囲んでいた俺らの顔を見回して、夏ちゃんがふっと笑った。
「刺される時の気分て、こういうものなんだなってわかったから。よかったです」
「おいおい」
「すいません」
ずっと泣き顔の宝井さんは、消え入りそうな声で謝り続けている。
「すいません。すいません」
その様子を心配そうに見ていた夏ちゃんが、いててと言いながら上半身を起こした。
「宝井さん。謝るのはなしです。それより」
「はい」
「ノーは最初からしっかり言いましょうよ。そうしないと」
ふうっと小さく息を吐いて。傷の上に手を置いた夏ちゃんは、自分自身に言い聞かせるように呟いた。
「また……同じことが起こります」
「……」
宝井さん以上に泣きじゃくっていた小林さんが、あえぎながら頷く。
「わたしも……そう……思う」
うん。今はむしろ、危機が去った宝井さんより小林さんの方が辛いかもしれないな。過去の傷が大きい小林さんは、どうしても最悪だった時のことを思い出してしまうから。それでも……逃げなかったな。
人に背を向け、目が一向に外を向かない。自己主張が必要な時ほど黙り込んでしまう。いつも逃げこめる場所ばかり探している。それが小林さんの悪い癖だった。でも、今回ばかりはそれが逆になった。自分のことは後回しで宝井さんを気遣い、大事なところで危機を声にした。今度は恐怖に負けなかったんだ。
ずっと課していた宿題を自力でやっつけた小林さんには、でっかい勲章をあげることにしよう。
「なあ、小林さん」
「う……ん」
「上出来だよ。最初の試験は満点で合格だ」
にっと笑った俺を見て、小林さんがほっとしたように目をこすった。さて、本筋を切り出すか。
「宝井さん。本件、これで終わりだと当事務所は怪我人出した上にただ働きになってしまうので、少しだけリカバリーにご協力ください」
「あ、はい」
「経過観察だけみたいですが、夏岡の付き添いをお願いします」
「はい」
「それと、今のうちにきちんとあの男との関係を整理しておかなければならないので、久良瀬の調査を当所に依頼してくださいませんか?」
「わかりました」
「久良瀬の言う婚約というのは嘘っぱちだと思うんですが、今後の対処のこともありますので」
「……」
宝井さんが無言で頷いた。
《 ぽ ち 》
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