《ショートショート 0934》


『霧吹き』 (おじさんの声 2)


「んもう!」

私のすぐ近くで何度もぷうっぷうっと頬を膨らませていた高
梨くんが、くわえていたストローを放して苛立ちをぶちまけ
た。

「どうして、先生のはうまくいくのにわたしのはだめなのよ
う!」

「ははは」

「笑ってないで、教えてくださいよう」

「教えただろ? さっきのでザッツオールだよ」

「ううう」

まあ。
ここで『今時の子は』論をぶちまかしてもしょうがない。

私は、もう一度折れ曲がったストローをくわえ、その先をペッ
トボトルに入れた沢水につけて、ふっと強く吹いた。

しゅっ!

霧状になった水が広がり、それが見上げた夏空に小さな虹を
作った。

「ほら」

「くやしいいいっ!」



inz1
(イヌザンショウ)



史学ってのは、文献だけ読んでいれば出来るか?
まあ、実際にそうしている人が多いし、私もその考えを全否
定するつもりはない。
文献は膨大な資料を系統立てて整理したものであり、それを
利用するのは、効率的な解析を行う上で理にかなっているか
らね。

だが歴史は、記号の中に押し込められた途端に非常に脆弱に
なる。
歴史ってのは人間が生きてきた『跡』の集大成だが、現物が
すでに現存しない以上、文字で表現された跡にはとんでもな
い量のノイズが混ざり込むのだ。

ほとんど創作かもしれないし、意図的に粉飾されたり改ざん
されたかもしれない。ノイズまみれの文章の中から考慮に価
するものだけを取り出すのは、宝探しに等しい。
さらに、そうやって得た宝の評価も、我々の意識のバイアス
でいかようにもねじ曲がる。

だが、文字を離れて存在するもの、現在でも存在し続けてい
るものに関しては、少しだけノイズのレベルを下げることが
出来る。

建物はもちろんだが、像、碑文、城址……時を経て未だ残り
続けているものは、黙しているが嘘を吐かない。それが文字
ほどの情報量を持ち合わせていないにしても、ね。
だから学生たちには、本ばかり読んでないで歴史の証言者を
自分の目で確かめろと言い含めてある。

そんなわけで。今日は講座の女子学生を一人伴って、摩崖仏
と古い碑文を見に山中の古道を分け入ってきたのだ。

見学ではなく学術調査なので、きちんと記録を取らなければ
ならない。
ところが。碑文を刻んである石の風化が進んでいる上に汚れ
ていて、刻まれている文字がよく見えなくなっていた。
高梨さんは、文字をなんとか写真に撮ろうと悪戦苦闘してい
たんだが、どうしてもうまくいかない。
林内が暗くて、コントラストが確保できないしな。

「えーん、せっかくここまで来たのにぃ」

高梨さんのやる気はそこで尽き果てたらしい。
見るからに態度が投げやりになった。
トロイの遺跡を探り当てたシュリーマンほどの執念を絞り出
せとは言わないが、もうちょい根性を見せて欲しかったな。

「なあ、高梨くん。文献をコピーしに行って、コピー機が壊
れていたらどうする?」

「諦めます」

これだよ。

「あのなあ。それじゃあちっとも史学の修練にならん。単位
は出せない」

「ええー?」

「百年以上前には、コピー機なんぞ影も形もなかったんだぞ」

「う……そっか」

「文字は書き写す。像や風景は絵に残す。現世の君らが見て
いるものは、昔の人たちの印象のコピーだよ。彼らに出来
て、君らに出来んわけはないだろ」

「はあい……」

めんどくさいと思ったんだろう。声に強い不満が混じった。

「まあ、碑文なら拓本を取ればいいだろう」

「それは、なんですかー?」

うーむ、拓本を知らんのか。
それをぶつくさ説明するよりは現物を見せた方がいい。
カバンから画仙紙を出したところで……はたと気付いた。

「あ、霧吹きがないな」



inz2
(ヤブジラミ)



霧吹きがなくても、碑文に当てた画仙紙を濡らしたティッ
シュで端から押さえていけばことは足りる。
だが、私はあえてストローを切って即席霧吹きを作った。

その場しのぎの粗末な霧吹き。
だが拓本を取るなら、霧吹きがあるとないとでは効率が全く
違う。

紙を水張りし終わったら、型取り。
墨汁は持っていたが、万が一にでも碑文を汚すわけにはいか
ない。草を揉み出した汁を墨代わりにし、碑文の凸部を象っ
た。
写真では確認できなかった文字が、くっきり目前に浮き出し
たのを見て、高梨くんの口数がぐんと少なくなった。

「こんなちゃちな霧吹きでも、作り方や使い方を知っている
のと知らないのとでは全然違うだろ?」

「はい。分かります」

「君がそれを有用だ、自らの記憶に残す意義ありと思えば、
私から高梨さんに歴史が一つ伝わったことになる」

「あ……」

「それも、私のはうまく行って高梨さんのはうまく行かな
かった。もし高梨さんが、自分の得た情報を次に伝えようと
いう熱意を持っているなら、私が引き渡した情報はもっと磨
かれる。質が上がるんだよ」

「そっか」

「ノイズや嘘まみれかもしれない史実が、それでも現在に至
るまで脈々と受け継がれてきた。私は思うんだよね。それは
先人たちが、伝え残すことで私たちの未来がもっと明るくな
ると信じていたからじゃないかなってね」

「……はい」

私は、手にしていたストローを指差す。

「これを、ここにぽいっと捨てたとする」

「はい」

「プラスチックはなかなか分解しないから、ストローはずっ
と残るよ」

「うん」

「でも、それを高梨さんが見つけても、ゴミだって思うだけ
だろ?」

「もちろんです」

「じゃあ、さっきのストロー霧吹きは?」

「……あ」

「形のあるものが残っていても、それに意味を置かなければ
遺らない。形がなくても、そこに意味を置けば遺る。受け継
がれる」

高梨さんも、自分が手にしていたストローをじっと見つめた。

「史学ってのいうはそういうものさ。おもしろいだろ?」





Spectral Mornings by Steve Hackett

ハケットの奥様だったキム・プアのスプレイアートが素敵です。
2007年に離婚したんですね。人も羨むおしどり夫婦だったのに。
ううむ……。