《ショートショート 0857》


『朱の戸』 (凝る赤 3)


人気のない山端の畔道。
一人の壮年の男が、所在無くぽつりと立ち尽くしていた。

男は。
沈みつつある落日を、ひたすら見つめていた。

「よう、悟助はん。どないしはった?」

背後からかかったしゃがれ声。
振り返った男は、物憂げに声の主を確かめた。
そこには、村の名主である坂下喜一の姿があった。

「ああ、坂下の」

男は半端に髪の伸びた月代(さかやき)をぞりぞりと手で擦
ると、何度か大きな溜息を漏らした。

「いや、夕陽がきれいやなあ思うてな」

「はん。そんなんなんぼ赤うなっても、魚一匹焼けまへんが
な」

「そらあそうやけどな」

喜一は極め付けに口が悪く、それゆえ検収方の小役人たちは
揃って喜一を苦手にしていた。
しかし末席の高岡悟助だけは、喜一の歯に衣着せぬ物言いを
全く意に介さなかった。
喜一は、鷹揚な悟助にだけは一目置いていたのだ。

悟助も、喜一の吐き散らす皮肉や雑言を無用のものとして聞
き流すことはなかった。
それが喜一の感情から出るものではなく、名主という百姓を
束ねる立場の者としての言であることを理解していたからで
ある。

悟助は、喜一が役人たちを蛇蝎の如く嫌っていることはよく
承知していた。

役立たずのくせに、くだらん体面にはようけこだわりよる!
威張り散らして無理難題を振り回す、しょうもない穀潰しど
もや!

その怒りは当然であったが、悟助が身を置く木っ端役人の小
さな世界はどうしようもなく閉じ切っていた。
それゆえ、いくら悟助が身を清くしても喜一に嫌われる立場
から逃れることは出来なかった。

悟助は喜一の気骨に畏敬の念を抱いていたが、それを喜一に
明かすことはついぞなかったのである。



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「のう、喜一はん」

「なんですのん」

悟助が、夕陽に向かって右腕をぐいと伸ばした。

「あれは入日や。朱の戸は、これから閉まる」

「そうですなあ」

「それが……寂しいなあ思うてのう」

「はあ?」

喜一は、何ぃわけわからんことを言いよるんやと、白毛混じ
りの眉を寄せた。

「戸は、明日ぁまた開きますやろ」

「そうやな。喜一はんにはそう見えるんやろなあ」

「ちゃいますのん?」

「……」

しばらくの間じっと入日を見つめていた悟助は、ぼそりと漏
らした。

「世の中が……大きゅう動くらしいで」

「はあ?」

「江戸の殿さん。もうあかん言うて、降りたらしい」

百姓の多くが浅学で世相に疎いと言っても、名主の喜一だけ
は別格だった。身分の違う役人相手に手八丁口八丁をぶちか
ますには、藩の情勢や政令に能く通じておかなければならな
いからだ。

喜一は悟助の口から出たとんでもない言葉に、天地がひっく
り返るくらいの衝撃を受けた。

「そんなこと、ありえへんやろ!」

「いや……間違いなさそうや」

「ほなら、わてらどないなりますのん?」

朱の色は夜の闇で濁って、どんどんどす黒くなっていく。
そこへまだ黒を足すかのように、悟助が雑言を放った。

「喜一はんは変わらへんし、何も変えへんでええやろ。食う
もん作る民は、いつまでもそのまんまや」

「……」

「変わるのはわしらや。朱の戸を見て日の出ぇ重ねる連中
は、偉いさんだけやから」

「ほう?」

「わしら侍や言うたかて、やっとうなんかやったことあらへ
ん。帳簿なめて、めくって、調べた数書く。それが仕事やか
ら、侍でのうてん代わりはおる。わしは、きっとお払い箱や
ろな」

「悟助はんなら、なんでも出来まっしゃろ」

「そうやろか」

朱の戸を開いて日本を変えるのだと己に酔いしれ、無為に騒
ぎたてている連中のどれほどが。
落日に自身の凋落を重ね、途方に暮れる男がいることを……
そういう男たちが無数にいることを知っているのだろう。

悟助は。
閉まりつつある朱の戸を、自らの瞼(まぶた)で先に塞いだ。



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明治政府が成立し藩制度が廃止されると同時に、多くの下級
武士が名ばかりの士族に貶(おとし)められ、職を失って困
窮した。
そのあるものは商いを始め、あるものは畑を打つようにな
り、あるものは何処にか姿を消した。

悟助は……自らの手で再び朱の戸を開くことが出来たのだろ
うか?

一人の百姓に戻った喜一は、刈田を見回る道すがら、立ち尽
くしたまま夕陽を見続けていた悟助の後ろ姿を……ふと思い
出すのであった。





Sunset by Michael Giles