半月 第五章



九得 (1)


あれから。美月さんはずっと眠ってる。
医者を呼ぶなって、あれだけ強く言われちゃったから、わた
したちは美月さんの意識が戻るのを待つしかない。

卓ちゃんは、すぐに店を閉めた。店舗の灯りは消えてる。
居間の薄暗い蛍光灯に寄りすがるようにして、わたしたちは
息を凝らしてる。
すごく心配だけど、原因が分からない限りどうしようもない。

時計の針はもう十時を回っていた。
でも、誰も立ち上がらない。動かない。
誰もが、静かに彫像のような美月さんの顔を見下ろしてる。
見続けてる。

そこへ、ふらっと。
いつの間にか、文三さんが上がってきた。

ここしばらく誰も文三さんを見かけてなかったから、わたしも
みんなもすっごく驚いた。
以前と同じように仏頂面で、無言。
集まっているわたしたちを気にする様子もなく、ゆっくりと美
月さんの枕元近くに座った。

そしていきなり美月さんに話しかけた。

「すまんな。俺は長生きしすぎて、飽きた。あっちに行くこと
にした。だから、これでお前とはお別れだ」

座がどよめいた。
これまで、文三さんがしゃべるのを誰も聞いたことがなかった
から。
文三さんはわたしたちを見渡すと、低く通る声で言った。

「みんな揃ってるのか。丁度いい。まあ。最後だから少し無駄
話するかな。さよのこともあるしな」

え? 誰?
さよ、って?

文三さんはあぐらをかきなおすと、しれっと言い放った。

「俺は猫だ。長生きしすぎた、な」

迫田さんがなぜか頷いているけど。
わたしも他のみんなも、全然わけが分かんない。
な……に?

文三さんが、美月さんの顔を見下ろしながら独り言のように
語り始めた。

「さよは下総の田舎で生まれた。さよが数えで十二の時だっ
た。飢饉の年で、多くの娘が口減らしで売られた。さよもそ
うやって、親から捨てられた。でも、さよは運が良かった」

「さよを請けた置屋のおかみさんは苦労人でな。新造に優し
かった。自分も上州の田舎から出てしんどい思いをした。だ
から……ってな」

「年季が明けるまで。いい人に想われて請け出されるまでは
自棄にならないように、と。とにかく優しく、家族のように
さよに接した」

「他の姐さんも、みんな優しかった。でも、誰よりさよが。
さよ自身が、他の誰よりも優しかった。自分はどうでもいい
から、姐さんたちがいいようにと心を砕いた」

「遊女は体を売るのが商売だ。望む望まざるを問わず、な。
だから、すさむ。普通はな。だが、さよの置屋、美野屋の女
は違った。人気の太夫が次々に出た」

「顔でも、体でも、芸でもない。心に、情に、男が群がった
ンだ」

「けどな。それはいいことばかりじゃない。美野屋は、吉原
ン中の店じゃない。吉原のやり手の置屋から見れば外道だ。
だから妬みを買った」

文三さんが、美月さんをじっと見下ろす。

「その日は特別だった。数えで十七になって、さよの水揚げ
が組まれていた」

「見知らぬ男に抱かれる。それは遊女には避けて通れない宿
命だ。さよを一番かわいがっていた松風という姐さんが、さ
よを心配して揚屋に詰めた。おかみさんも他の姐さんを連れ
て、その揚屋に来ていた」

「そして、事が起こった」

「田舎武士の馬鹿息子が、酔った勢いで通りを歩いていた遊
女を手篭にしようとした。その女が逃げ出したのに逆上し
て、そいつを追って、抜き身ぃぶら下げたままさよの居た揚
屋になだれ込んだンだ」
 
「それが偶然だったのか、誰かの仕向けか、今となっちゃあ
分からねえ。だが、逃げ込んだ女を庇おうとしたおかみさん
が、真っ先に斬られた」

「あとはなで斬りよ。店にいた男も女も手当たり次第に。座
敷の中にまで入り込んで、呆然としていたさよを袈裟に切り
下げようとした」

「そン中に飛び込んだのは松風姐さんだ。そのまま、さよを
抱えるようにして絶命した。松風姐さんの体で隠れたさよ
は、気違い侍の目を逃れて生き残った」

「さよは全てを無くしたンだ。その時にな」

文三さんは、そこまでとつとつと語り続けた。

わたしは……思い切り面食らっていた。
いや、わたしだけでなく。文三さんが何のことを話している
のか、誰も分かってなかったと思う。

「俺はな、その美野屋で飼われていた猫だ。松風姐さんが俺
を気に入って、随分かわいがってくれた。さよは松風姐さん
が好きだったから、俺にもとてもよくしてくれた」
 
「俺は、さよや松風姐さんの膝の上で寝るのが好きだった。
夜は知らん男の頭が乗っていても、昼の膝の上は俺だけのも
んだ。そうして、うつらうつら眠っているのが好きだった。
俺は大概トシだったからな。ずっと……ずっとそうしていた
かったンだが」

文三さんが、大きな目玉をぎょろりと巡らした。

「気違い侍におかみさんと人気太夫を切り果たされて、美野
屋は潰れた。生き残ったさよの頼れるところはどこにもなく
なった」

「俺はさよを探しに行った。さよは、誰もいなくなった店の
塀の角で、俯いたままぼんやり立ち尽くしていた。泣いてい
るのかと思ったが、泣いちゃあいなかった。もう……涙も
残ってなかったンだろう」

「そん時だ。暦をちょうど三回り生き延びた老いぼれの俺
は……猫又になっちまったンだよ。さよの目の前でな」

なっ!!

「誰かの恨みを受けて化身したわけじゃねえ。俺自身が何か
を呪ったわけでもねえ。呪師の道具に使われたわけでもね
え。自然に、なンとなく、あやかしになっちまった」

「だから。俺の望みは、猫として自由に過ごすことだけだっ
た。猫の時のまま。好き勝手に」

「ただ、猫の時にはなかった力が俺には備わった。まあ、あ
んまり使うこたあねえンだが」

文三さんがぎごちなく指を折る。

「人に化ける。魂魄を移す。障る」

それから、横目でじろっとわたしを見据えた。

「あさみ。お前の髪の奉書と赤い水引き。あれは魔除けよ。
瘴気(しょうき)は女に憑きやすい。俺がいるとどうしても
集まってくるからな」

すぐに顔を伏せて、文三さんが美月さんの顔を見下ろす。

「俺はさよの膝の上が好きだったから、さよに言った。俺は
どうもしばらくくたばりそうにねえ。長生きするといろいろ
不便だろうから、お前もちぃと手伝ってくれねえかってな」

「さよはびっくりしただろうな。でも、俺が一緒にいるって
ことで安心して。うん、と答えた」

「俺はさよの体を消して心だけにした。仮初の器にそれを入
れて、夫婦のふりをした。そうして今まで、ずっと一緒に暮
らしてきたのさ。さよを俺の隠れ蓑としてな」

そ……んな。

「俺は思ったよ。さよは、いつか俺といることを辛く思うだ
ろう。もう堪忍してくれ、と言うだろうと。だからその時は
別れようと。成仏させてやろうと」

「けどな、さよは優しすぎた。俺のこんな仕打ちをずっと受
け入れてきたンだ。だから、俺もそれに甘えてきた」

ぐりっ。
太い首を回して、文三さんがわたしたちを見回した。

「俺は人間じゃねえ。だからさよが何を考えているのか、何
を望んでいるのか分からねえ。さよが別れ話を切り出さねえ
限り、俺からこれで終わりにするたあ言えなかったのさ」

やっと話が見えてきたけど……信じろって言う方が無理な話。
でも文三さんは、わたしたちのとまどいや狼狽を思い遣って
はくれなかった。

そのままつらっと話し続ける。

「だがな。さすがに俺も飽きてきた。もともと猫は飽きっぽ
いんだ。さよを誘った手前があるたあいえ、俺もよくここま
で続けてきたと思う」

「猫としての暮らしも、三百年も続けりゃもう充分だ。けど
よ、今度はどうやってくたばりゃいいのかが分かんねえン
だ。そしたらよ、上の時照寺の生臭坊主が知ったような口を
利いた」

「本来なら、あやかしは人の精気をすすって命を繋ぐ。だ
が、おれは猫又になってもただの猫のまま生きてきた。だか
ら、人に徒(あだ)することはなかった。生きるための糧は
普通の猫と変わらねえ。それなら、食わなきゃ死ねるだろっ
てな」

「それもそうだと思って、しばらくメシを食わなかったんだ
が、いい塩梅になってきた。そろそろおさらばできるらし
い」

「ただな。坊主が言うには、現世(うつしよ)に心を残す
なってことだ。またこっちに戻ってきちまうんだとよ。だか
ら、こうしてみんながいる時に、ちぃと頼みごとをしとこう
と思ってな」

卓ちゃんが、こそっと聞いた。

「時照寺の坊主って、もしかして御堂さんのことですか?」

文三さんは、御堂さんのことを容赦なく嘲った。

「はっはっはー。あの坊主、格好つけてるが本当に生臭で
な。なんとか美月を口説こうと必死だったのよ。まあ、あん
な禅問答みたいなやり取りで女を落とせるなら、誰も苦労せ
んわ」

身も蓋もない。わたしたちもつられて苦笑しちゃった。

でも。
すぐに笑みを消し去った文三さんは、ぎいっと表情を引き締
めた。