《ショートショート 0845》


『フットライト』 (らいぶらりあん 1)


足元を照らすための光は、ほんの少しでいい。
足元がきちんと見えれば、つまずいて転ぶことを十分防げる
もの。

何もかも照らし出す強い光だと、目がくらんで逆に足元が見
えなくなる。何もないところでひどく転んだりする。

だから。

私はそっと目を伏せる。
そこにだけある、ほのかな明かりを見つめるように。



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(ジュズサンゴの花)



「馬場先生、閉めますよー」

高校の図書室。
司書の岡崎さんが、閲覧スペースの隅で本を読んでいた私に
声を掛けた。

「あら。ごめんなさい。みんな、もう帰ったのね?」

「ええ。先生が最後です」

私がぱたんと文庫本を閉じると、岡崎さんがその表紙を覗き
込んだ。

「へえー。馬場先生は、そういうのがお好きなんですか?」

私が読んでいたのはジェーン・オースティンのエマ。
近世イギリス文学の傑作の一つで、恋愛小説だ。

「あはは。好きっていうより、なんか懐かしくてね」

「え? 懐かしい……ですか?」

「そう。大学の時に、これで卒論を書いたから」

「あらあ! 素敵」

「ちょっと失敗しちゃったなあと思ったけどね」

「どうしてですか?」

「恋愛小説なのに、読むのがとてもしんどいのよ。出てくる
のがみーんな変わった人たちばかりで」

「きゃははははっ!」

本当は『変わった人』じゃない。みんな難ありのろくでなし
ばかりなんだ。
主人公のエマだって、空気の読めない奇妙な自信家。自分の
ことそっちのけで、友達の縁結びに血道を上げてる。それを、
おまえおかしいぞって男友達にどやされるんだよね。
オースティン自身が、読者に嫌われる主人公だって言ってる
の。

それでも私がこの本を卒論の対象に選んだのは、たとえ的外
れでもエマが自分を信じてばりばり動き回る話だったから。
親、兄姉のエゴに押し潰されて、人を信じられなくなってし
まった私とは正反対なんだもの。

エマの良き助言者だったナイトリーと最後に結ばれるってい
う結末は、ご都合主義だなあと思いつつも憧れだった。
私にも、いつかきっとそういう騎士(ナイト)が現れるんだ
ろう。そういう夢を見られたから。

だけど夢は夢に過ぎない。
だって、私の中の人間不信はいつまでたってもそのままなん
だもの。
心の濁りに目をつぶったまま都合のいいラブストーリーを運
んでくれる、そんな太っ腹の神様なんかどこにもいなかった。

そして……私はそれから二十年以上、ただ無為に年を重ねた。

「馬場先生?」

「あ、ごめんね。もう出ます」

私が席を立とうとしたら、岡崎さんが柔らかくそれを押しと
どめた。

「ちょっと……いいですか?」

なんだろ?
私の向かいの席に座った岡崎さんが、私の顔をじっと見つめ
る。

「先生は、お一人なんですよね?」

「そうよ。意地を張ってそうしてたわけじゃないんだけど。
なかなかね」

「そっか……」

岡崎さんが、長机に頬杖をついて苦笑いした。

「うまく……行かないもんですね」

「あなたはお若いから、いっぱい恋をするチャンスがあるで
しょう?」

それは皮肉ではなく。事実としてそう言ったつもりだった。
岡崎さんも、そう捉えてくれたと思う。でも……。

「まあね。でも失敗が大きいと、しんどいです」

「……なにかあったの?」

「昨日、離婚が成立したんですよ」

ええっ? だって岡崎さん、まだ二十代前半……。
そうか。結婚されてたのね。知らなかったわ。

「わたしね、卵巣に異常があって、子供が出来ないんです」

「あら……」

「彼は、それを知っていてわたしにプロポーズしてくれた。
最初から最後まで二人で暮らすというライフプラン。それを
彼が提示してくれたのは、本当に嬉しかったんです」

「うん」

「でもね、それは、避妊しないで好きなだけ女を抱ける。し
かも子供が出来ないことを理由に、外にセカンドワイフを作
れる。そのための言い訳でした」

「……」

「恋愛って……何なんでしょうね」

「そうね」

迫害も裏切りも、精神(こころ)をひどく蝕む。辛くて光に
目を向けられなくなる。
私はこれまでずっと俯いたまま。暗くてよく見えない自分の
足元しか見ていなかったんだ。

「ねえ、岡崎さん」

「はい」

「私のはね、恋愛以前。そもそも人を信じられないの。誰も
彼も汚い欲の塊にしか見えないの」

「……」

「感情を隠してるから尖って見えないだけ。本当の私は、ど
うしようもなくかちんこちんの石ころなの」

「そうなんですか?」

「ええ。恋をしないんじゃない。恋が出来なかったの」

「……」

「でも……教え子で、とても素敵な恋をした女の子がいてね」

「へえー。恋のお相手はどんな人なんですか?」

「自分自身よ」

「……」

「ひがみっぽくて、無気力で、どこまでも投げやりだった
子。異性を惹きつける魅力なんか、かけらもなかった。だけ
ど、見事に自力で自分を立て直したの」

私は自分の足元を見下ろして、少しだけ微笑む。

「その子に言われちゃったのよ。お手本にしたいから、幸せ
になるのを諦めないでくれって」

「わ……」

「素敵な恋をしたいなら、まず自分に恋をしよう。そう教え
てくれた彼女に、私はとても感謝してる」

「……」

「恋をすると女はきれいになるって言うでしょ?」

「はい」

「私は逆だと思うな。自分をきれいにすると、恋することが
出来るようになる」

「自分をきれいに……かあ」

「ええ。いつも自分を切り刻んでばかりじゃ、きれいになん
かならないよね。それよりも……」

私は自分の足元を指差した。

「足元だけでいい。歩くのに不自由しないくらいのほのかな
明かり。それを自分で灯したいなって、そう思うの」

「ふうん」

「それなら、俯いたままでも出来るでしょ? そこからよ」

岡崎さんが、ふっと笑った。

「そうですね」

「さ、閉室にしましょ。ごめんね、長居して」

「いいえー。お疲れさまでした」




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Afterglow by Travis