《ショートショート 0843》


『忘れるには古過ぎ、思い出すには新し過ぎる』


「ペリエを」

「はい。少々お待ち下さいね」

その女性が私の店によく来るようになったのは、最近のこと
だ。

どう見てもまだ二十代の若い女の子が、一人でふらりとバー
に来ること自体とても奇妙だったが、もっと奇妙だったのは
決して酒を注文しなかったことだ。

オーダーは、いつもペリエ。

誰かの付き合いで来るというならともかく、本来酒を飲む場
所であるバーで炭酸水を飲んで帰るっていうのは、どうにも
解せない。

それでも、客は客だ。
私の店を気に入ってくれているのなら、それで構わない。

特段私の方から話しかけることもなく。
一杯のペリエをうまそうでもまずそうでもなく、ただちびち
びと飲み干して帰る女性に、またどうぞとそっけなく声をか
ける日々がしばらく続いた。



tuk2



そんなある日。
いつものようにカウンターに彼女が陣取り、私にペリエを注
文したところで、ちょっとしたトラブルが起こった。

まあ……ナンパってやつだ。

うちの常連客ではなく、飲みの流れでなだれ込んできて奥の
席で騒いでいた数人のサラリーマン。
その一人が、彼女に狙いを定めたらしい。

「かーのじょー。ひとりー?」

まあ、どう見ても酔っ払いのちょっかいだ。
返事しないで無視するだろうと静観していたんだが、いつも
は静かな表情のまま無言でペリエを口に含んでいる彼女が、
にやりと嗤った。

そう、笑うではなく、嗤うだ。
それまで全く表面に出てこなかった彼女の感情が、決して穏
やかなものではないことが……見て取れた。

そのささくれた笑顔は、酒で気が大きくなっていた男の酔い
に冷水を浴びせるには充分だったんだろう。
彼女は何も言っていないのに、くるりと背を向けて奥の席に
戻った。

「ちっ。すかしやがって」

正直、彼女の容貌は男性を強く惹きつけるタイプではない。
だから彼女の浮かべた笑みが、『わたしなんかに声をかけて
どうするの。あんたも物好きね』という冷笑であれば、私は
すんなり納得出来たんだ。

だが、さっき彼女が見せた嗤い。それはあからさまな挑発
だった。
わたしを口説けるものなら、口説いてみなさいよ!
そういう……トーン。

外に剥き出しにした感情を格納しないまま、彼女は私の方に
向き直った。

「ねえ」

「はい?」

「マスターはさ。女の子、入れないの?」

まあ……地味なバーで、何も売りがないように見えるんだろ
うなあ。

「入れません……というか、借金まみれで人を雇う余裕なん
かないんですよ。自分が食べてくだけでもやっとです」

「ふうん……奥さんが、よくそれでいいって言うね」

抜き身の刀でいきなり切りつけるような言い方。
私は、苦笑しながらそれを切り返す。

「私が会社を辞めた時点で、もうダメでしたから」

「……」

「この店を始めたくて会社を辞めたわけじゃない。会社を辞
めたから、こういう店をやらざるを得なかった。そういうこ
とです」

「それ、奥さんに言ったの?」

「もちろん。私がもう限界だったってことは、何度もね」

「……」

「しょうがないです」

「うん」

彼女が剥き出しにしていた敵意は、すうっとどこかに格納さ
れたようだ。
まとっている雰囲気が、これまでのものに戻った。

「ねえ、マスターはさ。わたしが……変だと思う?」

「また、そういう答えにくいことを」

「あはは。正直にどうぞ」

「変です。ここはバーですよ。お連れさんがいないのに、お
酒を飲まれない方がここで時間を過ごす意味が、私には分か
らないです」

「そうよね」

「ここが、ああいう若い人のよく来る店だというなら別です
よ」

私は、こっそり奥の席を指差した。

「……」

「お客様はこれまで何度も来られていますから、ここがおじ
さん……というか、年配客しか来ない店だというのは、もう
ご存知かと」

「うん。そうね。シブいわ」

「うちは、純粋においしいお酒を飲ませる店。そういうコン
セプトなんです。安酒がぶがぶではなく、おいしいお酒を適
量たしなむ。基本、そういうのがお好きな方しかお出でにな
りません」

グラスを拭きながら、私の背面いっぱいに並べられたボトル
の列を見回した。

「ですから、お酒の味を損なう要素を極力排除してるんで
す。BGMはぎりぎりまで音量を絞っていますし、私からは
お話を振らないことにしています」

「あはは。そういうことかー」

「はい。でもね、お客様がうちでお酒以外のものを気に入っ
て下さったのなら、それがなんであってもおかしいと言うつ
もりはありません」

「それでも、変は変……てことね?」

「正直に言わせていただければ」

「まあ、そうよね」



tuk1



カウンターの上に頬杖をついた彼女は、そのあと私に聞こえ
るようにぼそりと呟いた。

「忘れるには古過ぎ、思い出すには新し過ぎる……か」

「は?」

ものすごい違和感を覚えて、思わず聞き返した。

「逆じゃ……ないですか? 昔のことは自然に忘れますし、
最近のことはすぐ思い出せますよ?」

「マスターも、そんなだから奥さんにぶっちされるんだよー」

うんと年下の若い女の子にばっさり断罪されると、返す言葉
がない。

「信じてた人にがっつり裏切られるとね、それが生々し過ぎ
て、思い出したくなくてもすぐ目の前に浮かんできちゃう。
その傷は、どんなに時間が経っても絶対に消えないの。勝手
に風化するなんてことはない」

!!!

「なるほどっ!」

「でしょ?」

彼女は、いつものようにペリエの代金をカウンターの上に置
いて、店の奥を見遣った。

「あそこにね。若いカップルが時々座ってたはずよ。わたし
がここに来る……ちょっと前までね」

「……」

「じゃね、さよなら」

彼女は……さっきナンパを仕掛けたサラリーマンに見せたの
と同じ、恐ろしく挑発的な笑みを私に押し付けて。
さっと店を出て行った。


           −=*=−


それきり。
彼女が店に来ることはなくなった。

おそらく、付き合ってた彼氏が二股をかけていたんだろう。
その彼氏が浮気相手と時々飲みに来ていたのが私の店。
彼女は二人が飲んで盛り上がっているのを見て、酒に敵意を
抱いた。だからノンアル……か。

最後に言い捨てていったセリフをそのまま受け取れば。
彼女が元彼を許すとか諦めるということは、絶対にないね。
彼女は、元彼になんらかのアクションを起こす、もしくは起
こしたんだろう。

偶然とはいえ、裏切り者の元彼に格好の隠れ家を提供するこ
とになってしまった私。
彼女が最後に意味深なことをほのめかしたのは、元彼とのこ
とにもしけりがついても、抱え込んだ怨嗟は一ミリも減らな
いからねという強烈な脅しだ。

もっとも、それを私にぶつけられても困るけどね。
私は、客からのオーダーを受けて淡々と酒を提供するだけだ
からさ。それ以外は何もしていないんだ。

「ふう……それにしても」

私は、空になったペリエの瓶に造花を活けてカウンターに並
べた。

「元彼。生きているんだろうか?」





Too Old To Rock'n'Roll Too Young To Die by Jethro Tull

 ロックンロールにゃ年だけど、死ぬにはちょいと早すぎる。(^m^)