《ショートショート 0837》


『アンバー』 (なみだのいろ 5)


きいっ。
小さな軋み音の後でドアが開いて、今夜最初の客が来た。

「よう」

「あ、いらっしゃい。夜はひんやりするようになってきました
ね」

「十月も残り数えるほどだからなあ」

「ええ。あ、そうだ。沢田さん」

「ん?」

「今日は、ちょっと変わったものを飲んでみませんか?」

「ほう? なんかビンテージものでも入れたんかい?」

「確かにビンテージ……なんですけどね」

私はボトル棚からではなく、カウンターの下からその瓶を
引っ張り出した。

「それ……ウイスキーかい?」

「バーボンです」

「まあ、なんというか……すごい色だね」

「ですよね。琥珀色っていうにはちょっと……」

「ほとんど黒に近いじゃないか」

「ええ。話のタネくらいにはなるかなあと」

「ふうん……」

「もちろん、お代をいただけるような代物ではないので、あ
くまでも味見ということで」

「いいけどよ。それはどこから来たんだい?」

「私が前に勤めていた会社の同僚が、今アメリカに赴任して
まして、そいつが田舎のマイナーな醸造所を見学に行った時
に土産で持たされたんだそうです」

「ほほう。そうか、ハウスワインみたいなもんだな」

「ええ。でも、エイジドなんていう生易しいものじゃないん
ですよ」

「そんなに古いの?」

「1931年。まだ禁酒法が生きてた頃の仕込みですね」

「隠し樽を、隠し過ぎて忘れちまったってやつだな」

「そうみたいです。残念ながら、市場に出すほどの量もクオ
リティもないので、まあ持ってけやって感じだったみたいで」

「ふうん。俺もたいがい年だけど、俺が生まれる前に仕込ま
れた酒かあ」

ラベルのない酒だけの瓶をしげしげと眺めていた沢田さん
に、飲み方の注文を取る。

「どうします? ロックにしますか?」

「いや、まずストレートで味を見たい。ショットグラスに少
しだけ入れてくれんか?」

「分かりました」

私はカップボードから切り子のショットグラスを一つ下ろす
と、それをバーカウンターに置いて、ちびりと酒を注いだ。
ぷうんと強い樽香が漂う。

「うぷ。この時点で、もうこれだけ匂うのかい」

「そうなんですよー。私もちょっと……」

ショットグラスを手にした沢田さんが、こわごわ酒を舐めた。

「う……わ」

まるで毒薬を飲んでしまったかのように、ぎゅうっと顔をし
かめる沢田さん。

「こらあ、どうにもならんな」

「ですよね。スモーキーっていうならまだいいんですけど、
これはどう見ても焼け焦げちゃったバーボン」

「詰めた樽のヤニを全部吸い取って、極限まで濃縮したって
感じだなあ」

「日持ちはしそうですけどね」

私のくだらないジョークに苦笑いしながら、沢田さんがグラ
スを置いた。


           −=*=−


口直しにノブクリークを開け、最初の一杯は私からの奢りに
する。えらいもんを飲ませちゃったからね。

「うーん……うまいね」

沢田さんはご満悦だ。

「これだって、決してあっさりの部類ではないんですけど
ね。でも、スモーキーさっていうのは、ここらへんが限界か
なあと」

「そうだな。これ以上煮詰まるともう口に出来んね」

最初の一杯をロックで飲み干した沢田さんは、二杯目はあえ
てストレートにすると言った。

私は汗をかいたグラスを下げ、新しいグラスに深い飴色の
バーボンを注いだ。

沢田さんが、受け取ったグラスを両手で包むようにして呟き
始めた。

「アンバー……か」

「琥珀ですね」

「ああ。琥珀ってのは元は木の涙だよ」

「へえー……」

「昔々、木が涙を流した時には色がなかった]

「そうなんですか?」

「ヤニってのは最初は透明さ」

「知らなかった……」



mkr1
(ムクロジの未熟果)



「その涙が、長い時を経て、琥珀という宝石に凝(こご)っ
た」

「……」

「じゃあ、全ての涙が時を経れば宝石に化けるか。そんなこ
たあないね」

ちびりと液面に舌を這わせた沢田さんが、薄眼を開けた。

「苦労とか苦難てえものが人を磨く。よくそう言うだろ?」

「ええ」

「違うよ。そういうこともたまにある、だ」

「……」

「酒の出来がよけりゃあ、それで初めて仕込みの苦労が実っ
たって言えるのさ。仕込みが良くても、その全てがいい酒に
なるわけじゃない」

沢田さんが、古酒の瓶を指差す。

「あいつみたいにね」

「なるほど……」

「涙の数だけ苦くなる。それなら、口に出来んほど濃くなる
前に、さっさと飲んじまった方がいい」

グラスに残っていた酒をすっと煽った沢田さんは、すぐに席
を立った。

「なあ、水野さん」

「はい?」

「あんたなら、あのどうしようもない酒をどう使う?」

「うーん、使いようがないですよねえ」

「だろ? 薄めようが何しようが、あの強烈な樽香はどうに
もならん」

「ええ」

「香りの乏しい若い酒に古いスピリットを混ぜても、単純な
足し引きではおいしくならんということさ」

「……」

「涙の意味ってのも、そんなもんだよ。若い頃の透明な涙。
年を経た琥珀の涙。意味が違う。一緒くたには出来ん」



mkr2
(ムクロジの完熟果実)



沢田さんが帰られたあと。
店内には、まだ古酒の強い残り香が漂っていた。

私は、洗い上がったグラスを拭いてカップボードに戻しなが
ら、帰る間際に沢田さんが言い置いていったことをじわっと
思い返す。

事業を息子さんに継がせて、悠々自適に見える沢田さんだけ
ど、実際にはいろいろあるんだろう。
沢田さんのアドバイスが、息子さんには余計なお世話に受け
取られているのかもしれない。

酒は、若いものとエイジドをブレンド出来る。
それがおいしくなるかどうかはともかく、ね。
でも、人間の場合はそういうわけに行かないんだ。

「琥珀は涙……か」

年を取ると涙を流さなくなる?
そんなことないね。

……涙の色が違うだけだ。





Trail Of Tears by Clannad