《ショートショート 0838》


『くら談義』


「のう、儀兵衛」

「なんじゃ?」

藩庫の中で、指先を舐め舐めくたびれた帳簿をめくっていた
儀兵衛が、ひょいと顔を上げました。
儀兵衛と同じように帳簿を改めていた伊之助が、その手を止
めてぶつくさこぼします。

「お主、嘆かわしいと思わぬか?」

「何がじゃ」

「近頃、殿が鞍に贅を尽くしておるではないか!」

手を止めた儀兵衛が、埃っぽい蔵の中をぐるりと見回しなが
ら首を傾げました。

「蔵はおんぼろのままじゃが……」

「その蔵ではない! 馬の背に乗せる鞍じゃ」

「ああ、馬の鞍か」

「馬を鍛えず鞍を華美にするなど、本末転倒じゃ。倹約を旨
として我らを諭すべき藩主として、全く示しが付かぬではな
いか!」



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(キクラゲ?)



伊之助の憤りはもっともなことですが、儀兵衛は一向に取り
合いません。

「殿にはそう出来るのじゃから、させておけばよかろう。儂
らには能わぬことにいくら憤ったところで、ただ腹が減るだ
けじゃ」

「じゃが!」

閉じた帳簿で伊之助の口を遮った儀兵衛は、蔵の中を見回し
ながら訥々と言葉を並べて行きます。

「よいか。太平の世ならば騎馬の要はない。そして、我が藩
はとことん貧乏じゃ。参勤の時にしか使わぬ馬に多くの銭を
使うくらいならば、儂らの禄を払うてもろうた方がいい」

「ううう、儂ら、馬にも及ばぬのか」

「儂らの方が、馬より飯を食わぬ。それに、農馬ならともか
く兵馬では戦にしか使えぬ。儂ら以上の役立たずじゃ。殿が
馬を減らしたのはまさに英断」

「それならば、なぜに鞍にだけ銭を使う?」

「耳目をそこに集めるためじゃ」

「……」

「のう、伊之助。この蔵の中、本来であればもっと武具、馬
具で満たされておるはず」

慌てて、伊之助が蔵の中を見回します。

「うぬ……そう言えば」

「藩財政が逼迫しておるゆえ、不要不急なものを売り払った
のであろう。じゃが、台帳の上には残しておかねばならぬ」

「なぜじゃ?」

「お主も鈍いのう。急ぎ兵を整え江戸へ参集せよという命が
いつ何時下されるか分からぬ。その時お主は、武具馬具が整
わぬまま褌と竹光のみで参上するのか?」

「ぐ……む。それは……」

「無論、そのようなことは決して起こるまいて。じゃが、お
上の見方は違う。儂らは、有事前提に備えを改められるのよ」

「……」

「役人は、蔵の中までは一々調べぬわ。帳簿があれば事足り
る。じゃが万一備えを見せろと言われて、お主はすぐに応じ
られるか?」

「あっ」

伊之助の手からぽとりと帳簿が落ちました。
屈んでそれを拾い上げた儀兵衛が、はたはたと埃を払います。

「殿は見せ鞍を整え、それを客に見えるところへ飾っておく
のじゃろう。検査役は、見せ鞍の向こうに馬と軍備を見るの
よ。本当はそんなものがなくともな」

「ううむ……」

「僅かな見せ鞍にかける銭など知れたものよ。安物の鞍を馬
の数以上揃えて蔵に死蔵させるよりは、余程安く済むわ」



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(ヤブガラシ)



儀兵衛のことを己と同じぼんくらの小役人だと思い込んでい
た伊之助は、儀兵衛の思わぬ深慮に狼狽しました。

「のう、儀兵衛。お主、なぜそんなことが分かる?」

「阿呆」

儀兵衛は手挟んだ帳簿をぽんと掌の上に落とすと、呆れ顔で
伊兵衛を見遣りました。

「よいか? 儂らは、貧乏藩の貧乏小役人じゃ。それでなく
とも乏しい禄で女房子供を養わねばならぬ。お主はそれを本
当に心得ておるのか?」

「……」

「田畑に依れる百姓であれば、何があっても己の食う分くら
いはなんとか出来るじゃろう。じゃが給金で食ろうている儂
らは、そこがどうにもならぬ。殿ですら糧が絶えることを案
じておるのに何を呑気な」

儀兵衛の厳しい指摘に、伊之助は顔が上がらなくなってしま
いました。

「殿がどうのこうのと言う前に、まず己の備えを確かめるの
が先じゃろうが。禄の乏しい儂らは、殿よりもっと危ういの
じゃから」

「む。お主は備えておると言うのか」

儂とお主。禄も立場も変わらぬではないか。
ぐうの音も出ないほど儀兵衛にやり込められた伊之助は、お
もしろくありません。反駁を試みます。
ですが、儀兵衛はぴしりとその難癖を跳ね除けました。

「当り前じゃ。儂の女房は商家の娘じゃ」

「けっ。下賎な者に媚を売りよって」

「侍の娘なぞ、何らの銭ももたらさぬ。ただの金食い虫よ」

「……」

「儂らがどんなに倹約を重ねたとて、見栄でそれを散らされ
ては穴の空いた袋に酒を入れるようなものじゃ」

「く……」

「商家の娘は、幼い頃から銭金の重みを叩き込まれておる。
儂らよりもずっと目が利くのよ」

「もしや」

「そうじゃ。殿のしつらえた鞍。その意味を見抜いたのは儂
ではない。女房のはつじゃ」

儀兵衛は空棚の目立つ蔵の中をゆっくりと見回すと、ふっと
笑みを浮かべました。

「蔵を満たすばかりが能ではない。あるものでどう凌ぐか。
それもまた蔵の活かし方じゃろうて」

儀兵衛の論にどうにも歯が立たぬ伊之助が、苛立ちを募らせ
て最後の悪あがきに出ます。

「じゃが、蔵が空ではどうにもなるまい!」

儀兵衛は閉じていた帳簿を再び開くと、お前の御託には付き
合えぬとばかりに伊之助に背を向けました。

「蔵だけは残るじゃろうが」

「う……」

「それならば、食えぬ見栄や体裁を掃き出して、知恵と工夫
を満たせば良かろう。なに、それには一文の銭もかからぬわ」





Three Blind Mice by Gong

 これだけマリンバやシロフォンを全面に打ち出してるバンドも珍しいかと。
 納豆ギターは、もちろんホールズワースです。(^m^)