《ショートショート 0829》


『サーチライト』 (いのちをみつめて 19)


貧民窟の奥底。
饐えた生ゴミと糞尿の匂いが漂い、衣服かボロ布かの区別が
付かない洗濯物が幾重にも垂れ下がる隙間をくぐり抜けて。
私はその男の住む低層アパートにたどり着いた。

貧民街の中でも、最も最下層の人々が住む地域。
小綺麗な身なりで入り込むと、即座に追い剥ぎにやられるぞ
と現地ガイドに警告されていた。

だが、なにせ私が持っているのは使い古しの手帳とちびた鉛
筆一本だけ。それがすぐ分かるような服装だから、心配はし
てない。靴すら履いていないからね。

脂ぎった金持ちの風体ってことならあれだが、どこからどう
見ても私はくたびれきったしわくちゃ爺だ。私から何か奪い
取ってやろうと考える物好きは、そうそういないだろう。

何かよこせというなら、この手帳と鉛筆をくれてやるよ。
大事なことは私の記憶に刻む。手帳はその補助装置にすぎな
い。なくなっても、どうってことはない。

躊躇せずにずかずかアパートに踏み込んでいった私は、一階
にただ一人住み着いていた老人の部屋のドアをノックした。

「だれだい?」

現地語で素性を確かめられたので、現地語で答える。

「リバープレスのグエンと言います。カディさんにお会いし
たく、伺いました」

「私はトシでよう動けん。勝手に入ってくれ」

先ほどは現地語だったが、今度は英語で返事が返ってきた。
私がその部屋に足を踏み入れると、灯りのない薄暗い部屋の
隅のベッドに、もう九十を越しているんじゃないかという感
じの痩せ衰えた老人がひっそり伏していた。

「何の用だい?」

「私もカディさんほどではありませんが立派な爺で、もうそ
んなに先があるわけじゃありません。それで、あの世に行っ
た時に父に報告をしたいんです」

「どんな報告?」

「父は、捕虜収容所で看守をしていました。あなたはそこに
捕らわれていた。でも、ある日収容所を脱走して行方をくら
ました」

「ああ」

「父は、あなたと結託して脱走を手助けしたと疑われた。ス
パイの疑いをかけられたんです。拷問で嘘の自白を強要さ
れ、敗戦の直前に銃殺されました」

「……」

「筆まめな父はずっと日記を書いていたんですが、父の遺品
整理をしている時にそれとは別の裏日記を見付けたんです。
それは、看守という仕事に関わるとても私的な内容だったん
ですが、奇妙なことにあなたのことは一つも出てこない」

「冤罪だと……言うんだね」

「はい。私は、父が無実だったという事実をどうしても確か
めたいんです」

「よく……私にたどり着いたね」

「あなたは、本国では未だに戦争犯罪人の扱いです。でも国
と国の争いの場合は、必ず両極に立つ人々が存在します。あ
なたは一方では裏切り者ですが、他方では英雄なんですよ。
それなら、私は対極の人々を当たることであなたの在所を確
かめられます」

「そうか」

カディさんは、深く落ち窪んだ眼窩の奥に少しだけ光を灯す
と、唐突に語り始めた。



oy1
(オオマツヨイグサ)



「看守から私たちに命令が下されることはあっても、その逆
はない。私たちの陳情や抗議は全て看守で遮断された。そう
いう仕組みになっていた。君の父君もその例外ではない」

「ええ」

「看守の間にも相互監視の仕組みがあるから、それをかい
潜って雑居房にいる私にだけ接触することは出来ない」

「では、父があなたと通じ合っていたという事実はない、と
いうことですね」

「そうだ。それは不可能だよ」

「では、あなたはなぜ脱走を図ったのですか?」

「君の父君と同じさ。私も身に覚えのない罪を着せられた」

「冤罪……ですか?」

「そうだ。私はダブルクロス(二重スパイ)を疑われたんだ
よ」

「……」

「密偵というのは、信用を失った時点で存在価値がなくな
る。私に裏切りの事実があろうがなかろうが、連中には関係
ないんだよ」

「それで……ですか」

「敵味方の両方から疑われている以上、私はそのどちらにも
保護を申し出ることが出来ない。徹底して逃げるしかなかっ
たのさ」

カディさんは、薄い胸を精一杯膨らませると、そこから濁っ
た息を細く吐き出した。

「収容所が、比較的市街地の近くにあったのが幸いした。囚
人服さえ着替えることが出来れば、人の中に紛れこむことが
出来るからな」

「そうですか」

「貨物船の船倉に潜み、南亜に脱出。そこからはずっと貧民
窟の底に潜り込んで、今まで生きながらえてきた」

「……」

「私は……二度とサーチライトの光を当てられたくなかった
んだよ。見つかったが最後、覚えのない罪を着せられて銃殺
さ。そんなのはまっぴらだ。だから私は、光の決して届かな
いこの世の果てに潜んでいたかった」

「自ら死を選ぶことは考えられなかったんですか?」

「考えたことがないね。私の無実を証明できるのは、生きて
いる私だけなんだよ。そう出来なかった君の父君は、本当に
無念だったと思う」

私は、静かに古い手帳を畳んだ。
その頁の間に潜り込ませるようにして、カディさんがか細い
声で質問した。

「君は、私のことを記事にするのかい?」

「しません。父のところに行った時、今の報告をするだけで
す」

「そうか……。君は、この事実をあの世に持っていくんだな」

「そのつもりです」

「私は、全部こっちに置いていくよ。あの世には何も持って
行きたくない。だから、君の父君には今のうちに謝罪してお
く。巻き込んで済まなかったと」

「承りました」

カディさんに取材を受けてくれた礼を述べ、私はゆっくり背
を向けた。

「なあ……」

「はい?」

振り返ると、カディさんが微笑を浮かべていた。

「サーチライトは……嫌いだったが。今、光が当たって。そ
れが私の最後の記憶になるだろう。ありがとう」

私は何も答えずに、小さくもう一度頭を下げ。
部屋を出た。



oy2
(サネカズラ)



塵芥が乱雑に積み重なっているような貧民窟の奥底で、一発
の銃声が響いて。

老人が一人……亡くなった。





Monochrome Searchlight by Eccy + Shing02