《ショートショート 0810》


『老道化師の楽日』


地方公演の楽日。
盛況のうちに、無事舞台の幕が降りた。

ひと昔前と違って、今は様々な娯楽が気軽に楽しめる時代だ
が、まだサーカスの魅力は衰えていないようで、どの町に行っ
てもたくさんの客が来てくれる。

猛獣を使わないうちの団では、軽業が見世物のメインだ。
難しい演技は若くて体力のある団員しかこなせないから、私
のようなクラウン以外はみな四十前後で現役引退し、退職す
るか裏方に回る。
だからうちの団は、団長を除けばほぼ若者ばかりの集団だ。

際物の少ないうちの団が客をいっぱい呼べるのは、若手の多
いエネルギッシュな空気に負うところが大きいだろう。

もっとも、全てをそういう軽業系だけで埋めるのはしんどい。
それは演技する方も見る方も、だ。だから私のような道化が
張り詰めた空気を緩め、そこを休憩と笑いで埋めるわけだ。

「ふう……よっこらせ、と」

客が滞りなく退席し、客席の点検を終えた団員が手際よくテ
ントの撤収を始めた。プレハブ小屋でメイクを落としていた
私は、団員がきびきびと作業を進める様を鏡越しに何気なく
眺めていた。



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(ウキツリボク)



「ジェスさん?」

「うん?」

そこにひょいと入ってきたのは、まだ見習いの若い道化師、
ライルだった。

彼はもともと軽業師を志望して入団したのだが、残念ながら
適性が乏しく、団長から転身を勧められてクラウンになった。
それから三年、団付きクラウンの中ではもっとも年嵩の私が、
マンツーマンで彼に道化のノウハウを教えてきたんだ。

まだまだぎごちないが、演技はだいぶ板についてきた。あと
は教わることよりも、空気を読むこと、場数を踏むことの方
が重要になるだろう。

「あの……」

「なんだい?」

「とんでもないことを団長から聞いたんですが……」

「とんでもないこと? 地球が破滅するってか?」

どてっ。まだメイクを落としていないライルが、舞台で見せ
るように派手にぶっこけた。ははははは。

「いや、そうじゃなくて。ジェスさん、今日で終わりだった
んですか?」

うーん……こそっと消えようと思ったんだがなあ。
まあ、仕方がない。

「まあね。今日のが私にとっても最終公演だったんだ。始ま
りがクラウンだったなら、そのクラウンのままでさっと消え
たい。それが私のたっての希望だったからね」

「あの」

「うん?」

「ジェスさんなら、まだ……出来るような気が……」

思わず苦笑する。

「ははは。年寄りをこれ以上こき使わないでくれ」

「ええー?」

「まあ、他の団には七十過ぎてもまだ現役で働いてるクラウ
ンがいる。演し物を調整すれば、私もまだ現役で出来るよ」

「でしょう?」

「でもな。それだと君が育たん」

「……」

「今の君は、自分の役をこなすことだけで精一杯だ。どうす
れば道化として客に受けるか。それを、私を見ながらやって
しまってる」

「あ……」

「私は客じゃないよ。同じ団員だ。君がどんなに私を満足さ
せたところで、お客さんには何の印象も残せないよ。違うか
い?」

「そう……ですね」

ライルがひっそりと俯いた。
まだ自分の演技に自信のないライルは、身近に評価者と助言
者が欲しいんだろう。でも、それは本来どちらも客だよ。



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(ヤブミョウガ)



「そうだな。ここで四十年以上世話になってきたから、一つ
だけ置き土産を残していこうか」

「なんでしょう?」

「君は、客がなぜサーカスを観にくるか、考えたことがある
かい?」

「え……と。わくわくしたいから……かな?」

「ははは。それじゃあ、クラウンとしてはまだまだだな」

「う」

私は化粧台の前の椅子から立ち上がり、テント村がただの更
地に戻っていく光景を横目で見遣った。

「私たちが客に見せられるのは、楽しんでもらいたいってい
うホスピタリティだけさ。その形がいろいろあるだけだ」

「……」

「でもな。客は違うよ。彼らはいろんな思惑を抱えてサーカ
スを観に来る」

「思惑……ですか?」

「そう。さっき君が言ったみたいな興奮やわくわく感を純粋
に味わいたいという客もいる。確かにいる」

「はい」

「でもな。それだけじゃないんだよ。憂さを忘れたい。女の
子の気を引きたい。子供の機嫌を取りたい。ただの時間つぶ
しで来るやつもいれば、良からぬことを考えてうろうろする
やつもいる」

「う……わ」

「私たちが提供出来るのは、一時の笑いだけだよ。それは、
サーカスが終了すればほとんど残らない。さっき私が言った
どのタイプの客にもね」

「……」

「楽しかったという淡い記憶しか残せないんだ」

「そうですか」

「それだけなら、クラウンという役回りはちっとも楽しくな
い。いくら私らがプロだと言ってもね」

「ええ。僕もそう思うんですけど」

「だろ? だから、君もお客さんに代価を払ってもらいなさ
い」

「どういう意味ですか?」

「客は、それぞれ一人一人違う景色を持ってる。私たちが見
せられるものはサーカスという一つの景色でしかないが、彼
らは無数の景色を見せてくれるんだよ」

「……」

「君は、それを漫然と見過ごしてはいけない。客が笑いで隠
してごまかそうとする背後の景色に、鋭く目を配りなさい」

「うーん……よく分からないなあ」

「阿呆が阿呆の真似をする意味があるかい?」

「???」

私の唐突な問いかけに、ライルが目を白黒させている。

「阿呆はそのままで阿呆だ。演技の必要なんかない。悪党が
悪党の演技をする意味がないのと同じさ。私らが阿呆や悪党
でないから、練習して阿呆や悪党を装うことが出来るんだよ」

「あ……そうか」

「だろ? 私たちの見せているのはそういうものだ。私たち
が阿呆や悪党であってはいけないんだよ」

「どうしてですか?」

「観客たちには、私たちの見せているものが演技かそれとも
そのままの地なのかを区別できない。そこを誤解されると、
君はクラウンから現実に戻れなくなる」

「……」

「道化というのはあくまでも仕事だ。クラウンの化粧を落と
せば私はジェスに戻る。ライル、君もそうだ」

「はい」

「だが、君自身が道化そのものになってしまえば、君は二度
とライルに戻れないんだよ」

「う……」

「自分を削って道化に投ずるのではなく、道化の役作りを通
して幾千万の人々の背景を見通し、それを以って自らを肉付
けして君が君である意味や意義を高めていかなければならな
い」

私はゆっくりライルの背を押して、小屋から退出させた。

「それこそが。四十年かけて道化で培った、私の得難い財産
なのさ」





Circus Left Town by Eric Clapton