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最終章 梅雨寒


(3)


僕と専務が、入り口近くで腕組みしたまま考え込んでいたら。
外出していたらしい布目さんが戻ってきた。

……あれ?
マスクしてて、顔色が冴えない。布目さんも風邪引いた?
じゃあ、病院に行ってたのかな。

「ああ、えっちゃん。無理しないで今日は上がったらいいよ。
弓長さんが回復して戻ってきたからバトンタッチだ」

「そうさせてもらうわ。しんどい……」

げーっ! 声が割れて、完全に潰れてる。

「風邪……ですか?」

「そうなの。寝冷えしたのかな」

元気だったら僕に対して嫌味爆裂になったんだろうけど、さ
すがにそんな余裕はないみたいだ。

「布目さん、それしゃれになりませんよ。早く休まないと」

「うん。ありがと」

お大事にって言うかと思った専務は、ここぞとばかりでかい
爆弾を落とした。

「なあ、えっちゃん。事務量減るならともかく、木村が辞め
た穴が埋まってない分、逆に増えてる。えっちゃんに何かあっ
た時にそれで事務が止まったら、即死活問題なんだよ」

「……」

「若い子に嫌味かます暇があったら、しっかり仕事を仕込ん
でね。つまんない意地張ってる場合じゃないよ」

「……うん」

さすがだ。
布目さんが元気な時には、専務がどれだけ釘を刺しても効果
がないんだろう。布目さんが休まざるをえない今が、絶好の
矯正チャンスなんだ。
全てのチャンスに目を配って、タイミングを絶対に逃がさな
い専務。すごいな……。

いいも悪いもない。それは……まさに生き残るため。それだ
けだ。

「明日も入れて、今週中にしっかり休養して治してね。頼む
よ」

「そうする。ごめんね」

「お大事にね」

「じゃあ、お先に」

さすがの布目さんも、べっこりへこんで帰っていった。

「風邪って冬にしかひかないもんだと思ってましたけど……
そんなことないんですね」

「この時期は、鬼門さ」

専務が、とぼとぼ帰って行く布目さんの背中をじっと見送っ
てる。

「これからは暖かくなる。景気が良くなる。好転する。そう
いうイメージに騙されると、季節が少し後戻りしただけでこ
のざまだ」

じろっ! 睨まれた。

「いつも怯えてる必要はないさ。でも、あたしらには安住出
来る場所はないんだ。落ちる心配するよりゃ、どうやって這
い上がるかを考えないと」

「……」

「一生どん底だよ。冗談じゃない!」

うん。まさにその通りだ。

「じゃあ、仕事にかかります」

「頼むね」

「はい!」



tz12



病み上がり。まだ足元がふわふわする感覚は残ってる。
でも、インフルのウイルスに無理やり熱を絞り出されるより
は、体を動かして自然に出る熱の方がいい。ずっといい。

これまで罹患してた高柳ウイルスを退治するために、ものす
ごく高熱を発してる藤野製作所。
それが身を守るためだけの熱なら、いずれその熱で弱ってし
まう。
異常な熱が自分の平熱にきちんと変わるまでは、専務は決し
て治療を諦めないだろう。

僕は、専務のその姿勢を見習わないといけない。

ざばざばと書類の山を片付け、電話をかけ、伝票を整理し、
未決のことを既決に移していく。
何も余計なことを考えずに、きっちり集中して。

片付けても片付けても、しなければならないことは次々に降っ
てくるけれど、それは同じことの単なる繰り返しじゃない。
きちんとこなしていくことで、事態は収拾していく。平熱に
戻っていく。

体調が戻れば、薬飲まなきゃじゃなくて、おいしいもの食べ
たいなって思う余裕が出てくるはずだ。
そこまでは、何がなんでも踏ん張らないと。

「ん……」

僕は、仕事が楽しいとか、好きだと思ったことはこれまで一
度もない。
でも少なくとも今は、仕事をすることに嫌悪感を覚えたり、
辞めたいと思うことはない。

息をすることを意識しないみたいに。
仕事をすることも、無理なく僕の一部になりつつある。
僕の平熱になりつつある。

それがちゃんと積み重なって行けば。
僕は、崖っぷちを過剰に意識し続けなくても済むようになる
んだろう。

「弓長さん、大丈夫かあ?」

心配そうな顔で、井出さんが事務室に顔を出した。

「迷惑をおかけして済みません」

「いや、ええけど。えっちゃんもやられたし、わしらも用心
せんとなあ」

「まさか、この時期にインフルにやられるとは思ってもみま
せんでした」

「せやな。でも、今時期は季節の変わり目や。年寄りにはし
んどいわ」

二人して、降り止まない雨を見やる。

「でも、新しい人が増えて賑やかになりそうですね」

「ははは! せやな。活気があるのはええことや。専務は水
内さんの代わりも若い子入れたい言うとるし」

「あ……水内さん、やっぱり辞められるんですか?」

「だいぶ引き止めたんやけどな。体がしんどい言うてな」

そっか……。

「過渡期やな。それでも、うちはまだマシや。専務が意地で
も続ける言うて、がんばってくれてるから」

「ええ」

「これから少しずつ、若い会社になっていきよるやろ。わし
らの寿命も、それで伸びる」

「へえー」

「じいさんばあさんばっかで、しんねりむっつりやっとった
ら、はよぼけるわ」

「あはははは! あ、そうだ」

「うん?」

「次を考えないと……だめですよね?」

「せやな」

「井出さんの方で、こんなん作りたいっていうみんなの希望
を聞いといてもらえませんか?」

「はあ!?」

井出さんが、わけわからんという顔をした。

「どういうことや?」

「専務が考えてるのは、下請けからの脱却です。だから、な
んでも作りますじゃなく、うちはこういうのを作りますとい
う売り込み方を考えるんだと」

「ふむ……」

「それなら、実現出来るかどうかはともかく、作れるならこ
ういうのをやりたいっていう夢をまず出したらどうかな、と」

「ははは! そういうことかい。でも、それにどういう意味
があんねん?」

井出さんの口調に非難が混じった。

「営業に繋げるためです」

「!!」

さすが、井出さん。僕の意図をすぱっと汲み取ってくれた。

「そうか。営業がサンプル持って飛び込み、か。単価の高い
もんでそれぇ出来るようにってことやな。見せるなら、ちん
けなもんにするな、と」

「はい!」

「ええアイデアや」

作業服の裾をぱんと平手で叩いた井出さんが、にっと笑った。

「茶ぁの時間に振ってみるわ」

「お願いします」

「ええな。楽しみや! はっはっは!」

変な話。
高柳っていう呪縛を外れたところで、井出さんがいい意味で
開き直ったのかもしれない。専務の繰り出す博打にちゃんと
付いていってる。

社自体は間違いなく崖っぷちだと思うけど、黙っててそのま
ま衰弱死するより、大手術に挑んだ方がいいっていう専務の
チャレンジは、間違いなく社に熱を運んでくる。

その熱の中で、僕だけが冷えてるってことにはしたくない。
僕には、僕のしなければならないこと、出来ることがある。
それを……どうにかして僕が動くための熱に繋げよう。

ウイルスに振り回されて熱出すんじゃなく、ね。





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