《ショートショート 0805》


『裾を洗う』 (トリロジー 12)


なぜそうしようと思ったのか。自分でも分からない。
でも、わたしは普段身につけたことのないロングスカートを
履いた。床を擦るほど裾の長いスカートを。

これから海に行くというのに、なぜそんな動きにくい格好を
するんだ。夫の表情には戸惑いと非難が混じっていたが、そ
れを言葉にすることはなかった。
それだけ……わたしのまとっていた切迫感が重苦しかったん
だろう。

夫は車を運転している間、一言も口を利かなかった。浜省の
曲がカーステから小さく流れているだけ。その気遣いに感謝
しながらも。わたしはずっと考え込んでいた。


           -=*=-


「着いたぞ」

「うん」

砂浜がどこまでも伸びている海岸線。
梅雨時に浜遊びをしようと考える人は少ないんだろう。気持
ちのいい晴天なのに、広い砂浜にはほとんど人影がなかった。

わたしは車から降りる前に、もう靴を脱いでいた。
裸足で、最初はゆっくりと。砂浜に降りてからは裾を蹴散ら
すようにして、波打ち際に一目散に走った。

海風は強くはなかったけれど、それでもわたしのスカートの
裾を高々と翻す。それに苛立つようにして、わたしは海水の
中に足を踏み入れた。

ばしゃっ! 大きな水音と飛沫。

それまで翻っていたスカートの裾が濡れて、わたしの足元で
項垂れ、頼るものを失って怯えたかのように脛にまとわりつ
く。

わたしは波打ち際に突っ立ったまま、沖をじっと見つめてい
た。



sea3



わたしは……あまりに順調に歩んで来過ぎたんだろう。
友人や親族が様々なトラブルで悩まされている中、わたしに
はこれまで危機らしい危機がなかった。

寡黙だけど細やかに心配りしてくれる夫に恵まれ、息子も娘
も災難や非行とは無縁のまますくすく成長し、成人して独立
した。

ただ……。
子供たちの世話を焼く期間がいつか終わるということをしっ
かり認識していなかったわたしは。娘が就職を決めて家を出
た途端に猛烈な徒労感に襲われるようになってしまった。

子供の面倒を見る義務から解放されたんだから、今度は自分
のことで時間を使えばいい。
同年代の友人が誰しもそう言って自然にこなしている子離れ
の期間を、わたしはうまく通過出来なかった。

子育てに数々の苦難があれば、きっとそれからの開放感があっ
たんだろう。でも、わたしは二人の子育てをとことん楽しん
だ。それを苦痛だと思ったことが一度もなかったんだ。

だから二人の子とわたしたちとの関係は今でも良好で、息子
も娘も気軽に家に顔を見せてくれるし、いつでも昔のように
歓談する。

でも……わたしは母親でありながら、もはや母親ではない。

息子や娘にとって、わたしが母としていなければならない理
由はもうないんじゃないだろうか? そういう喪失感。
もちろんそれはわたしの一方的な思い込みで、子供たちに話
したら一笑に付されることだろう。

母親であることを取り上げられてしまったかのような喪失感
や脱力感は、事実としてわたしを蝕んでいる。そして、誰に
もそれを理解してもらえそうにない。

わたしは……それで萎えてしまったんだ。



sea2



塞ぎ込んで家事がうまくこなせなくなったわたしを心配して、
夫が気分転換に海に連れて行ってくれると言った時。

最初は全く気乗りしなかった。
でも、自分の中で何かちかっと光ったような気がしたんだ。
そこでなら、何か捨てられるような気がして。

何を? 何を捨てるの?

執着。

無心に子育てなんて、そんなのありえない。
自分を削った見返りを求めるあさましい気持ちが、どこかに
こびり付いていたんだろう。

親離れして、きびきび働き始めた二人の子供が立派な成果?
周囲はそう見るんだろうけど、わたしの中では違う。
これだけ奉仕したんだから、あなたたちはいつまでもわたし
だけの子供であって欲しい……そういう欲望がわたしを縛り
付けていたんだ。

でも……そんな執着、何の意味もない。
どこかで自分を執着から切り離さないと……わたしはこのま
ま燃え尽きてしまう。

何もかも抱えてくれる海なら、もしかしたら……。



sea1



押し寄せる波が、スカートの裾を洗う。
何度も何度も。

海水をたっぷり含んだ裾は重く垂れ下がり、まるで動けなく
なっているわたし自身だ。
何もかも洗い落としてくれるはずの海が、わたしの執着をま
すますひどくしているように……感じる。

でも……。

わたしは海に背を向けて砂浜に上がり、スカートの裾を手繰っ
てぎゅっと絞った。
ざああっ。砂に落ちた海水が、わずかに色の違う染みを作る。
そして、少しだけ身軽になった裾がゆっくりと潮風で揺れ始
めた。

「ふう……」

子育てに忙しい頃は、スカートなんか履いたことはなかった。
スカートは、子供が生まれる前までの自由なわたしの象徴の
ように見える。
でもスカートを履こうが履くまいが、わたしはわたしだ。
スカートは、あくまでも修辞詞の一つに過ぎない。

女から、妻、母と立場が変わる度に。
わたしの中に隠れていて見えなかったものが一つずつ現れ、
入れ替わってスカートが退場した。
きっと……それだけなんだろう。

わたしがいつまでもわたしであるように。海もいつまでも海
であり続ける。
だからこうして波に洗われても、海がわたしを清めてくれる
ことはない。
同じように、海がわたしを妄執に引きずり込んだり、現実の
棘の上に突き飛ばしたりすることもない。

そんな風に。今は上手に消化できない子供への執着も。
わたしの中のたくさんの心情の一つとして、何にも混じらず
染まらずに波間を漂いながら、いつの日か修辞詞の一つになっ
ていくんだろう。

「どうした?」

「裾を洗ったくらいじゃ、ちっともきれいにならないわ」

「濡れると砂まみれになるから、もっと汚れるだろう?」

「あはは。そうね」

夫は、砂の中から貝殻を一つ拾ってぐいっと尻ポケットに突っ
込んだ。

「あなた、それ入れっぱなしにして忘れないでね。洗濯の時
にポケット破けちゃう」

「ははは」

「やっぱり、海はいいわねー」

「そうだろ? 心の洗濯が出来るからな」

そうは行かないわ。
わたしは内心苦笑しながら、それでも結婚当初から変わらず
にわたしの心の揺れを察してくれる夫に感謝して。

吹き寄せる潮風に目を細めた。





Sound Of The Sea by Renaissance