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第二章 見たくない夢


(1)


熱のせいだろうか。眠りが浅くなっている。

僕が全てのストレスから解放されるのは眠っている時だけだ
から、寝付きもいいし眠りも深い。
僕はぐっすり熟睡するタイプなんだ。

そういう眠りの質のせいか、滅多に夢を見ない。
もし見たとしても、ほとんど内容を覚えていない。

もっとも、僕には夢の材料になるような記憶の在庫がものす
ごく乏しいんだと思う。

楽しいことも、悲しいことも、辛いことも……あまり覚えて
いない。
その日の自分の生を保つこと。それだけが日常になっていた
僕には、とどめておきたいどんな記憶もなかったんだろう。

奇妙なことに、何があったかだけは正確にしっかりと覚えて
いる。でも、それに感情の色が付いてないんだ。
真っ白っていうわけじゃないと思う。その色が……ものすご
く淡いってことなんだろう。
夢を見ない人。そういうところからも、自分がいかに変な人
間かってことを思い知ってしまう。

でも……今は違う。

僕はずっと夢ばかり見ていた。
それも……見たくない夢を。



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幸せっていうのは、どんなものなんだろう?

僕はそれに色や形があって欲しいと思う。
それがあやふやな空気みたいなものならば、僕の人生を懸け
てまでそれを取りに行く気がしない。

幸せでなくて、愛情とか信頼とか、そういうものもそうだ。
みんな、形を持っていない。それがどんなものか説明してっ
て言われると困ってしまう。

僕が学校に行くことを拒否して、実家に立てこもっていたの
も、それに近かったのかもしれない。

どうして学校に行かなかったの?
どうして親の介助を拒んだの?
欲しいものはそこにあるのに、それを手に取らなかったの?

僕は今までずっと、それをうまく説明出来ないと思っていた。
違う。僕にはそれを説明する気がなかったんだ。

こでまりの園で所長さんと話をした時、僕は群れが嫌いだっ
たと説明した。
あれは、その場しのぎの口から出任せじゃない。
一葉館に来てからずっと考え続け、僕が出した結論の一部だ。

群れが嫌い。それは……自分の位置を考慮されずに群れの中
に勝手に位置付けられることが我慢出来ないから。
決して、僕が孤立や孤独を好んでいるからじゃない。

孤立し、孤独になったのは、あくまでも僕が群れを拒絶した
ことによる結果であって、僕が心から望んだことじゃない。
僕は……ただ『独りでいること』に慣れただけに過ぎない。

そして『孤独』という個室の中に一度安住してしまうと、今
度はそこから出て人とやり取りすることが、猛烈にしんどく
なる。

孤立と従属。
どちらかが正しいのではなくて、どちらも間違っている。

じゃあ、何が正解?
僕は、どういう形を探し求めればいいの?
僕を取り崩さないで生きるためには、どうすればいいの?

何も。何一つ分からない。

そして庇護のあった子供時代には許された猶予が、僕にはこ
れっぽっちも残っていない。

経済的な崖っぷちからは少しだけ離れたけれど、精神的な崖っ
ぷちの状況は変わらないどころか、むしろ悪化しているよう
に感じる。
だって……もう僕一人のことじゃ済まないんだもの。

自分自身のことだってまともに始末出来てないのに、たみや
かっちゃんにまで手を広げちゃった。

僕の行動や判断が間違っていたら、二人の生き方を曲げてし
まう。彼らの薄情な母親たちのことなんか、偉そうに非難出
来そうにない。

崖っぷち……か。
僕は、自分の足元がいつも崩れ続けているような焦燥感にずっ
と苛まされている。

僕が辛いのは、崖っぷちにいることじゃない。
ここまでがんばれば、ここまで立て直せば、崖っぷちから離
れられるっていう見通しが全然立たないこと。
それが……どうしようもなく辛いんだ。

分かって欲しいとは言えないよ。
それは、僕に怠け癖があるからって思われるのがオチだろう
から。

だから僕は……崖っぷちにいるのに、そう言えない。
平然と、何でもないよっていう顔を装わないとならない。
そういう無理が少しずつ溜まって、ますます僕を崖っぷちに
追いやってるように感じる。

ああ、それはただそう感じているだけ。
実際には崖っぷちになんかいないのかもしれないけど。

でも。
僕は、崖の上に立ってる。そこから動けてない。
いつまで経っても……ね。


           -=*=-


「うう……」

僕が呻いたのは、悪夢にうなされたからじゃない。
高熱の他に、体の節々が痛くなってきたからだ。

一体、どうなっているんだろう?
これは……本当に風邪なんだろうか?
汗びっしょりで目を開いて、何もない天井をぼんやり見上げ
る。

僕がさっき見ていたのは、夢じゃない。
あれは僕の脳の中のゲンジツ。普段あまり使わないことに脳
みそを使ったのが、夢みたいに感じただけ。

そして、思考から離れてぼんやり天井を見つめている今の僕
が……その僕こそが……紛れもなく悪夢だ。

見たくない夢。
そうありたくない僕。
目を開けるとぴったり一致して、僕をどこまでも苛む。

「ふうっ……ふうっ」

吐き出す息が火のように熱い。
前向きに生きるための熱をなかなか熾せない僕が、病気の時
だけは無駄に熱を発する。なんて……皮肉な。

でも、まだ動ける。
動けるうちに出来ることはしておこう。

よろよろとベッドを降りる。
手足のあちこちが軋んで、分解寸前のロボットみたいだ。

ぎし……ぎし……ぎし……。
関節から音がしてるみたいに感じる。

押入れからタオルケットを引っ張り出し、汗塗れになった下
着を替えた。スウェットやシーツも替えたいけど、洗い替え
がない。ずっと雨続きだったから……。

それと。保険証。

僕は、手にした保険証をじっと見つめる。

そう。
コンビニバイトの時の崖っぷちと、今とは違う。
それを一緒にしちゃいけない。

あの時は、何かあったら全部オワリだったんだ。
風邪くらいならともかく、厄介な病気になっても医者にかか
れなかった。保険証が……なかったから。

家の維持費や光熱費の按分を僕に求めなかった両親だけど、
僕の保険や年金の支払いを肩代わりしてくれたことはない。
万が一のことがあればヤバかったのは、あの頃から変わって
ないんだ。

でも、僕はそれを甘く見てた。
そんなもの、なくても別に困らないし、払えるカネもない。
しゃあないやん……そう言って、スルーしてた。

でも、こうして体調を崩すとよーく分かる。
助けてくれる人だけじゃない。人を扶助してくれる社会の仕
組みがないと、本当に生きていけないんだってこと。

僕は今、藤野さんのところの福利厚生をちゃんと利用出来る。
それだけで、僕は毎日生命の危機に怯えなくて済む。
きちんとした仕事に就けば、給料をもらえるだけじゃなくて、
こういう制度がきちんと利用出来るようになる。

何もなくたって、いざとなれば誰かが助けてくれる?
そんなの、幻想だよ。

園部さんがそうだったじゃないか。
「しゃあない」であっても、僕らはケアをした。
でも、それが「冗談じゃない」だったら?
園部さんは、もうこの世にいなかったかもしれない。

横手さんが全力でどやした通りなんだ。

最初から人の好意や幸運をあてにしちゃいけない。
自力で出来ることを増やしておかないと……そして自分から
取りに行かないと何ももらえないんだ。
それが合法的にもらえるものであっても。

僕は、枕元に保険証を置いて、また布団に潜り込んだ。
今度はタオルケットがあるから、悪寒が少しましになる。

眠ろう……。





Rain On Me by Thierry David