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最終章 目に青葉


(4)


「新しい店名」

ゆかりさんが、持っていた紙を高々と掲げた。

「アトリエ・マリエ」

「ママの名前を残すんですね?」

「そう。マリエっていう名前は響きがいいし、お客さんはこ
の名前で馴染んでる。外したくない。それに……」

ゆかりさんは、ママの顔を覗き込んだ。

「ここは、ママの生き様そのものなの。それはどうしても残
したい。わたしの目標としてね」

ママは何も言わないで、にこにこしてる。

すごいなあ……。思わず泣き言が口に出ちゃった。

「ママがわたしの理想のお母さんだとしたら、ゆかりさんは
理想のお姉さん。こんな家に……生まれたかったなあ」

すかさず、トシがわたしに釘を刺した。

「たみ。どこに生まれるかは僕らには選べない。どうするか
をいつも考えてないと、後ろ向いちゃうよ?」

うう……その通りです。

ママが目を細めた。

「ふふふ。トシくんは厳しいねー」

「いえ。僕自身がいつも腰引けてるから……」

「ふうん」

ゆかりさんが、無遠慮にトシをじろじろと見回して。
それから……。

「頼りないへなちょこだって思ってたけど。しっかりしてる
じゃん」

「ゆかりっ!」

ママの鉄拳が、ゆかりさんのどたまに飛んだ。
がつん!

「ってー」

「あんたは、どうしてなんでもずけずけ口にするかなあっ!」

「あはは。いいんですよ。へなちょこなのは事実ですから」

トシがぱたぱた手を振って、気にしないという顔をする。

「横手さんや藤野さんのしばきは、こんなものじゃなかった
し」

「え? そうなの?」

思わず聞き返しちゃった。
トシが情けない顔になった。

「横手さんには残飯漁るごきぶりって言われたし、藤野さん
には髪結いの亭主かって……」

ぐ……ええ。ひ、ひど……。

ママもゆかりさんも絶句してる。

「でも、それはふらふらしてる僕を心配してくれてたからで
す。もっとしゃんとしろって」

「ああ、そういうことかあ」

うんうんと納得するママ。
そうよね。トシは、さっきのゆかりさんの言葉の後ろだけを
受け取ったんだろう。しっかりしてるって言った方。
見方をいい方に変えてくれるのは、確かに嬉しいよね。

トシからはまだひがみや劣等感を含んだ言葉ばっか出てくる
けど、トシが自分で言うほど、わたしたちの目から見たトシ
はぐだぐだじゃない。

むしろ、逆。
行動や考え方がふらふらしてない。わたしなんかより、よっ
ぽどしっかりしてる。

そういうトシの姿勢は、必ず評価してもらえると思う。
トシが行動した結果として。成果として。

そうだね。わたしも負けてられない。

「ふうっ!」

がっつり気合いが入った。

わたしは……もう誰かに隷属する生き方はしたくない。
二度と……したくない。

それなら、今の自分に出来ることをしっかりこなした上で、
出来ることをどんどん増やしていかないとダメだ。
そうしないと、ゆかりさんに対してだけじゃなくて、トシに
も頭が上がらなくなる。そんなのは……絶対にいや!

わたしというプランター。トシっていうプランター。
苗が植わったのは、ほとんど同時。それが、ぐんぐん成長し
て同時にいっぱい花を咲かせられるようにしたい。

今は……まだ弱々しい若葉でしかなくても。

ぐうううっ。
気合いはいいけど、空腹には勝てない。
景気良くわたしのお腹が鳴った。

「あ、すみませーん」

わはははははっ!

「じゃあ、これで失礼します。ゆかりさん、また明日改装の
予定とか詳しく教えてください」

「そうね。相談しましょ。改装中は、わたしもたみちゃんも
出稼ぎに出ないとならないし」

あ……それもあるのかあ。

「はい!」



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帰り道。
トシはずうっとにこにこしてた。上機嫌だ。

「どしたの?」

「うん。横手さんが、真実は一つじゃないよって言った意味
が、よく分かったかなーと思ってさ」

「……」

夫婦や親子。
それが時の流れの中でどういう歴史を刻むのか。

わたしたちには、その結果しか見えない。
そして、横手さん、小野さん、大森さん、ママ……。
みんな、形の上では結婚に失敗してる。
わたしたちに見えるのは、失敗したっていう事実だけだ。

それを見ちゃうと、腰が引ける。

わたしはトシと一緒になりたいけど……トシがわたしを受け
入れ切れなかったら、わたしは零れてしまうだろう。
それが結婚という形を取っていようがいまいが同じこと。

わたしは、それに耐えられそうにない。

だから、トシがわたしにブレーキをかけたのは当然なんだ。
結論を焦らない方がいいって。
横手さんや小野さんが、あんたたちのは時間がかかる、ゆっ
くりやんなさいって言うのも同じ意味なんだろう。

でも、心の距離はどんどん近付いていく。
わたしのトシへの想いは、ぱっと咲いて消える花火じゃなく、
これからぐんぐん大きくなる若葉のように、しっかりと、確
かになっていく。
それが、わたしにとっては間違いなく真実なの。

じゃあ、わたしはどうすればいいの?
ひたすらじっと待つべき? もっとどんどん押すべき?

……。

それが……横手さんの言ったこと。
わたしたちの繋がりに、これが正解、これが真実っていうの
はない。それは一つじゃなくて、いっぱいある。
だから……結婚とか、夫婦っていう形だけを欲しがっちゃい
けない。

そういうことなんだろう。

トシが嬉しそうにしているのは、ママとゆかりさんとのやり
取りを見て、それを実感出来たからじゃないかな。

ママの愚痴やあの男の突然の襲来。
過去のごたごたが、今全部ちゃらになってるわけじゃない。
それは間違いなく真実。

でも、ママとゆかりさんの目は今と将来に向いてる。
自分たちが目指している未来の設計図を書いて、それを実現
させようと努力してる。
過去が真実なら、今も真実。未来を掴もうとするアクション
も紛れもなく真実。

うん。真実は……一つじゃないね。

トシは、これから自分の親とのトラブルを心の中でこなして
いくつもりなんだろう。
わたしがこの前責めたことを、聞き流していない。

それじゃ、わたしは?

今日、施設の所長さんと話をした時に、わたしの中のどす黒
い恨みの感情がどばっと溢れちゃった。

そういう汚い感情を隠すことは出来る。いつでもね。
でもわたしは、それを無くすことは……許すことは出来ない。
たぶん。一生。

じゃあ、どうすればいい? わたしは何を真実にするべき?

「たみ」

話し掛けられて、はっと我に返った。

「な、なに?」

「遅くなっちゃったから、どこかで夕飯食べていこうよ。こ
れから作ると疲れるでしょ?」

うん。トシは、こういうところに本当に気が利く。
どこがぼっちのひっきーだったんだろうって思うくらい。

それは……トシが変わってきてるから。
今までとは違うものが、トシの真実になってきてるから。

そうね。わたしは……その変化を信じることにしよう。
トシのことだけじゃなく、わたしも変わって来てる。
その……変化を信じることにしよう。

「そだねっ! ファミレス行く?」

「うん。僕はミートスパでいいや」

「また、そんなエコモードでぇ」

「ははは」

わたしはちょっとの間足を止めて、紅(べに)の消えた空を
見上げた。青い闇が若葉を静かに眠らせて、空には星が瞬き
始めてる。
その小さな輝きを見て、わたしもトシに負けないくらいに嬉
しくなる。

うふふふふっ! 共同経営者……かあ。なんか、かっこいい
よね。

さあ、明日からまた頑張らなきゃ!





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