《ショートショート 0801》


『新緑』


「いい季節になりましたね」

貴女(あなた)は、そう言って眩しげに新緑を見上げた。



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それは。
二十数年前の、一度切りで、でも取り返しのつかない私の過
ちだった。

まだ独身だった私は、あちこち気ままにトレッキングに出か
けていた。あの時も、そんな一日だった。特別なことは何も
なかった。

連休に家族連れで賑わうハイキングコース。
その無秩序な喧騒に嫌気がさしていた私は、中腹で登山道を
外れて沢に降りた。

どこをどう登っても、辿り着く頂上は同じ。
がやがやと騒がしい中では、開放感も達成感も得られない。
かえってストレスを抱えてしまう。

せっかく新緑が美しい季節なのだから、若葉を透かした清々
しい光を心ゆくまで味わった方がいい。そう考えた私は、登
り詰めるのを止めて沢伝いに下ることにしたんだ。

そして……そこで貴女に出会った。


           -=*=-


貴女は、体型も容貌もあの時とそれほど変わっていない。
中年の女性にはとても見えない。
トレッカーにはそぐわない薄着と大胆な肌の露出も同じ。

あの時と違うとすれば、全身から惜しげもなく発散されてい
た淫靡な空気を完全に失っていたことだ。

容姿も服装もそれほど変わっていないのに、まとっている雰
囲気はまるで別人のようだった。落ち着いたと言えば聞こえ
はいいが、むしろひどく縋(すが)れた風情で。
それが、彼女の美貌をくすませているように見えた。

今も、あの時も。
なぜ彼女がこんなところにいたのかが全く分からない。
その異常性が私を現実から切り離し、あの時私の自制心を麻
痺させたんだろう。
私は、彼女の誘惑にまんまと引きずり込まれてしまったんだ。

人気のない沢筋の窪地で、私は貴女を何度も蹂躙した。
さも、それが当然の帰結であるかのように。

貴女はそれを歓迎するわけでも、嫌悪するわけでもなく。
ただ坦々と私を受け入れた。その不可解な態度に苛ついて、
私は何度も貴女を貫き通した。

新緑の淡い緑が投げ下ろす陽光のフリッカー。
そこから弾き出された男女の薄暗いまぐわい。
その奇妙なアンバランスが、私の中に深い溝を何本も穿って
行った。

貴女を置き去りにして、逃げるように下山した私は……。
あの時の現実を非現実に移そうとしては失敗し、今までずっ
とその光景(シーン)の再臨に苛(さいな)まされてきたん
だ。

たった一度の……でも取り返しの付かない罪悪として。



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「貴女は……なぜここにおられたんですか?」

「貴方はなぜ?」

私の質問は質問で返された。
それも……あの時と同じだ。あの時は何も答えられなかった
が。

私は、新緑のカーテン越しに薄日を見上げる。

「いつもの……トレッキングですよ。観光客の喧騒が嫌で、
登山道を外れて沢に降りた。今日もそう。他の理由はないで
す」

「そうだったのね」

貴女は、私と同じように浅緑を見上げる。

「貴方は……奥様は?」

「いませんよ。一度結婚したけど、うまく行かなくてね」

「そうですか」

きゅっと口を噤んだ貴女は、その後突然暴露話を始めた。

「あの時はね。わたしは、撮影だったんですよ」

「撮影……ですか?」

「そう。AVの女優をしてたから」

「……」

「監督が青姦を撮りたいって言い出したの。でも野外での撮
影は、見つかると公然わいせつで処罰されます。わたしはと
もかく、男優さんがそれを嫌がっててね。結局怖じ気付いて
帰っちゃったの」

「む」

「どうしようって言ってたところに、あなたが歩いて来るの
が見えた。じゃあ、素人さんに代わりをやってもらおうかっ
て」

……。

「ごめんなさい。とても事前に了承をもらえることじゃない。
こっそり盗撮になってしまったんです」

そう……だったのか。

「貴女は……その後どうされたんですか?」

「あれが……わたしの最後の出演ね。足を洗って、会社勤め
しました」

「じゃあ、ご主人がおられるんじゃ?」

「いましたけど……別れました。今は、独りです」

「あらら」

貴女は、ゆっくりと顔を伏せた。

「わたしの中で……ずっと後ろめたさがあってね」

「後ろめたさ?」

「そう。一方的に貴方を巻き込んでしまって。もしあなたに
彼女や奥様がいたら、わたしがその仲を引き裂くことになっ
てしまう。貴方の人生に、大きな傷を付けちゃったんじゃな
いかって……」

それでさっき確かめたのか。
私は、思わず苦笑いしてしまった。

「はは。それは私も同じですよ。私が欲望のままにしでかし
たのは……紛れもなく強姦ですから。貴女を傷付けたまま逃
げてしまった。悔やんでも悔やみ切れない」

「……」



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私は座っていた大きな岩から腰を上げ、背筋をぐいっと伸ば
した。

「それにしても。よく私が分かりましたね?」

「それは貴方にも聞きたいわ。二十年以上経ってるのに、こ
んなオバさん、よく分かりましたね?」

「どうしてでしょうね……」

私は見上げていた新緑から、貴女に視線を移した。

「まあ、新緑の魔法ってことにしておきましょうか」

「ふふ……」

「さて。せっかくいい天気なんですから、登山道に戻って登
り切ってしまいましょうか」

「それもそうね」

ここで見上げる新緑は、美しいけれどひどく切ない。
やっぱり、日差しの眩しいところで目を細めながら見渡す方
がずっといいよな。

「足元に気をつけてくださいね」

「あ……ありがとうございます」

私が差し出した手を、貴女は頬を染めて握り返した。





Stray by Aztec Camera