《ショートショート 0795》


『朱箱』 (ぱっけーじ 5)


もうもうと立ち込める香の煙の中で、式を飛ばす。

「出(いで)よ!」

数本の紙縒(こより)は違わず白蛇と化して、目前の小さい
朱箱にぎりぎりと巻き付き、それを破壊すべく締め上げた。
だが、粗末な木の箱はびくともしない。

白蛇は、まるで箱に食らわれるかのように蓋の隙間から中へ
吸い込まれてしまう。

みしっ! みりみりみりっ!

「くっ!」

全てを吸い込んで食らってしまう朱箱。
懐に忍ばせた護符が辛うじて箱の引力を断ち切っているもの
の、結界ごと食らおうとする箱を抑えることは出来ぬ。

「く……うう……ぬうううっ!」

凄まじい……凄まじい力だ。
息が上がって来た。

結界を張る際、箱に力を集めようとして二間(けん)という
小さな空間にしてしまったことが裏目に出た。
何もかもを吸い込もうとする朱箱の力は、小さな結界の中で
は儂にしか向かわない。

このままでは儂も食らわれてしまう。如何にせん?



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事の発端は、どこにでもあるつまらぬ諍いであった。

従五位の小役人藤原伴久(ともひさ)が密かに通っていた女
が孕み、伴久の禄では妻と女を抱え切れなくなった。
妻が高官の娘であった伴久は、義父の怒りに触れて官職を失
うことを恐れ、女と縁を切ることにした。

捨てられた女は伴久を恨み、呪符を忍ばせた朱箱を伴久の屋
敷に放り込んで、直後に赤子を抱いたまま川に身を投げた。
生霊より死霊の方が強く祟れると……そう考えたのであろう。

放り込まれた朱箱は、屋敷の中の何もかもを食らい始めた。
一夜にして、伴久もその妻も、子も使用人も箱に吸い込まれ
てしまった。

それで女の恨みが晴れたのならば、何処(どこ)にでもある
話よ。
だが……それでは済まなかった。

朱箱は、伴久の屋敷の中のものに留まらず、その周囲の何も
かもを食らい始めたのだ。
食らわれて消えるのは人だけではない。犬猫、鳥、牛馬に至
るまで、命あるものは何もかもを吸い込んでゆく。
まるで箱の中に億千万の餓鬼が蠢いているかのように。

朱箱の祟りを知った帝が、何人もの高名な術師に箱の封鎖を
命じたものの、その誰一人として帰ってくることはなかった。

このままでは都ごと箱に食い尽くされてしまう。
恐れをなした帝が、後先考えずに腐れ呪師の儂にまで手を伸
ばしたと。そういうことじゃ。

金子(きんす)に目が眩んだ儂も大概じゃな。これ程空恐ろ
しい箱だとは思いもせなんだわ。


           -=*=-


みりっ。みしっ。ぎししっ。
結界が歪んで、嫌な軋み音が儂を蝕む。

「ぐううっ」

何か。何か手はないのかっ!
こ……のまま……では……うぬぬ。

伴久もその妻子もすでに食らわれておる。それなのに、なぜ
怨呪が続く? なぜ? なぜじゃ!

「!!! そうかあっ!」

由(よし)が落雷のように閃いた。

「これは恨みなどではない! 飢えじゃ!」

食らっても食らっても満たされぬ。
それは女の恨みではなく、道連れにされた赤子の飢え。

乳がないことにではない。母が居らぬことへの飢えじゃ!
母に代わるものなど何処にも在らぬ。幾千万の命を吸い込ん
でそれにしがみついても、それは決して母にはなりえぬ。

そういうことかっ!

儂は奉書で象った人形(ひとがた)に呪を唱え、それに女を
写した。

「そなたの母じゃ! 受け取れいっ!」

飛ばした式が女御と化し、朱箱を抱きかかえるようにした。

びしいいいん!! ぱんっ!!

結界が破れるのと時を同じくして、朱箱が粉々に砕け散った。

「ふうっ! ふうっ! ふううううっ……」

辛うじて……間に合うたか。



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(テイキンザクラ)



香の煙が霧散し、静まり返った伴久の無人の屋敷。
儂は腰を抜かしたまま、暫く放心しておった。

「……」

急拵えの粗末な式に全力でしがみつかねばならぬほど、赤子
の飢えは極限に達していたのであろう。

箱から放たれた赤子の魂(たま)。
今度こそは、柔らかく暖かい器に収まればよいがのう。

「よいせ」

よろよろと立ち上がって、庭に降りる。

儂は都を捨てることにしよう。
なに。腐れ術師が一人、箱に食らわれて消えたと思われるだ
けじゃろう。面倒な箱に放り込まれるのはもうこりごりじゃ。

「のう、赤子よ。そうであろう?」

応える声はなく。
代わりに遠く遠くから揚雲雀の囀りが漂ってきた。





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