《ショートショート 0773》


『風邪』 (ふゆのひざし 8)


本当に久しぶりに、ひどい風邪を引いた。
鼻風邪くらいなら気合いで治してしまうわたしも、さすがに
三十九度を超える熱と吐き気、全身の倦怠感に叩きのめされ
て、ぴくりとも動けなくなった。

病院に行くのもしんどくて、今日は休ませてくれと職場と家
族に告げて、布団に潜り込むのがやっとだった。

主人も息子も、家事の分担とか、そういうことにはまるで理
解がないから、わたしが伏せってる間は家の中が荒れ放題に
なるだろう。
でも、それを気にしていられないほど本格的に体調が悪かっ
た。

生まれて初めて、高熱でうなされるという経験をした。
目を開けていると世界が歪み、目を瞑ると悪夢にうなされ続
ける。まるで無間地獄に落とされているような……。

食べ物も飲み物も喉を通りそうにない。
お腹は空いているのに、何か口に入れようという気力が湧か
なかったんだ。
びっしょりと大汗をかきながら、パジャマも下着も着替えら
れずにただ横になっているだけ。

これからどうなってしまうんだろう?
不安だけがわたしを埋め尽くし、それがますます症状をひど
くしていたと思う。

わたし以外誰もいない家。
寝室の窓から、冬枯れの庭がぼんやり見えて。
吹き寄せられていた枯葉から、かさかさかさかさと乾いた音
が響き続けてる。

庭にはたっぷり日が当たって明るいのに、無機的で寂しいっ
ていう印象しか受けない。

ああ……わたし、弱ってる。
体が、じゃない。心が、だ。



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身動き出来ずに喘いでいたところに、授業が終わって中学か
ら戻ってきた息子がひょいと顔を出した。

「母さん、大丈夫?」

「大丈夫じゃ……ない」

「お水か何か、持ってくる?」

お。
そんな殊勝なセリフは初めて聞いたぞ。
でも、そう言ってくれたのは本当に嬉しかった。

「冷蔵庫にポカリ入ってる。コップに少し入れて……持って
きてくれる?」

「分かった」

さっと引っ込んだ息子が、すぐにポカリを入れたコップを持っ
てきてくれた。
受け取ろうと思って腕を上げようとしたのに、上がらない。

息子の顔色が変わった。

「ちょ……ヤバくね?」

「冗談抜きに……しんどいの」

震えて力が入らない腕を支えてもらって、ほんの少しだけポ
カリを口に含んだ。

うん。吐き気が治った。それだけでも嬉しかった。
まだ動ける状況じゃないけど、どんどん悪化してるってこと
でもなさそう。

「まだ動けないから休むね。晩御飯は、パパと一緒にお弁当
か何か買って食べて」

「母さんは?」

「まだ……食べられそうにないの」

「……分かった」

心配そうな顔のまま、息子が寝室のドアをそっと閉めた。
ほんの少しのポカリでも、今のわたしにとっては命の水。
これで、最悪のことを考えなくて済むから。



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なかなか下がらない熱。
うとうとと意識が眠りと覚醒の間を行き来している間に、ゆっ
くりと日が翳り始めた。

風が弱まったんだろう。
午前中かさついていた庭はしんと静まり、少し朱(あけ)を
帯びた日差しが枯葉を柔らかく照らしていた。
影は緩んで薄くなり、淡い日差しとの差が少しずつなくなっ
ていく。

わたしは光で……周りを明るく照らしてると思ってたけど。
本当は枯葉で、ただ風でかさかさ言ってただけ?

光と影。形と色。落日とともに、全てが失われていく。
自分も、薄闇に飲み込まれて火が消えそうに感じてしまう。

「おい、大丈夫か?」

いきなり耳元で夫の野太い声がして、ぎょっとした。

「あなた……仕事は?」

「耕からメールが来た。ヤバいって」

うわ。

わたしの額に、夫のでかい手のひらがどすんと乗った。
そのひんやりした感触がとても気持ちよかった。

「まだ熱が高いな。これ乗せとけ」

帰り際に買ってきてくれたんだろう。
大判の冷えピタがぴちゃっと額に貼られた。

「珍しい……ね」

今までわたしが少しくらい具合い悪くても、気遣ってくれた
ことなんか一度もなかったのに……。

黙り込んで顔を伏せた夫は、ぼそぼそと昔話をした。

「鼻風邪くらいなら、そんなの気合いで治せって言うけどよ。
お袋が……風邪ぇこじらせて死んだからな」

……そうか。

「そんなことくらいで人間死んじまうのかって思ったら。怖
くてたまんないんだよ」

「うん」

「飯は作る。寝とけ」


           -=*=-


炊事なんかしたことのない夫と息子が、どんな凄まじい料理
を作るのか不安だったけど。
夜になって少し熱が下がり、やっと立ち上がれるようになっ
たわたしに充てがわれたのは、上手に炊かれた卵がゆだった。

「あ……おいしい」

「そうか?」

「やりぃ!」

「一生懸命作ってくれたお料理は、なんでもおいしいわ。あ
りがとう」

風邪はともかく。
弱気の虫は、まだわたしに巣食ってる。
熱々のおかゆを口に含みながら、わたしはぼろぼろ涙を流し
続けた。

それは。
嬉しかったからなのか、辛かったからなのか、分からない。
でも風邪をしっかり治すためには、汗だけじゃなくて、他に
も流さなければならないものがあるんだろう。

「ありが……とう」





I Catch A Cold by KOKIA