《ショートショート 0769》


『ラテアート』 (花のない花 4)


クリーミーに泡立てられたミルク。
その上で、黒いコーヒーが自在に世界を描く。

描かれた絵は人を騙すみたいに、にっこりと微笑む。
世界はちっとも苦くなんかない。
甘い、夢のような世界なんだよと。

嘘ばっか。
そんなの、カップに口を付けたらすぐに崩れて消える。

確かに夢じゃない。
ラテアートの絵は現実にそこにある。
でも、そこにあるのに儚い。
あっという間に……崩れて消える。

そして、口の中に残るのは苦い苦い後味だけだ。


           -=*=-


「うわあ! みっち、すごおい!」

「そう?」

「これだけでやってけるんじゃない?」

大学で仲の良かったかなこが、わたしのバイト先の喫茶店に
遊びに来てくれた。
卒業したあと一度も会ってなかったから、三年ぶり。

かなこには、学生だった時にもラテアートを見せてたけど、
その時はまだまだ下手っぴだったんだよね。
目をまん丸にしてラテアートを覗き込んでるかなこに向かっ
て、ぱたぱた手を振る。

「無理、無理。このくらいのラテアートなら、描ける人は山
のようにいるよ」

「へー、そうなんかー」

「それに」

わたしはカウンターの方を振り返る。

「マスターがこういうの嫌いなんだよね。だからここじゃやっ
たことないの」

「ええー? おしゃれなのにー」

「混じり気のないコーヒーそのものを、ちゃんと味わって欲
しいんだってさ」

「ふうん」

かなこが、わたしの肩越しにマスターの顔をちら見した。

「うるさ型?」

「そんなことないよ。優しい人。でも、こだわるところには
すごくこだわるの」

「なるほどねえ」



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(コウヤクタケの一種、他)



わたしがラテアートを描くようになったきっかけは、ささい
なことだった。

学生時代バイトしていたこことは別の喫茶店で、そこのあら
さーのマスターに惚れ込んだ。
おしゃれですごく聡明。いつも笑顔で会話にウイットが利い
てて、一緒に居てとっても楽しかったんだ。
そのマスターに、ラテアートの描き方を習ったの。

でも、マスターが手ほどきしてくれたのはラテアートだけじゃ
なかった。
世間知らずのわたしは、マスターが見せる聡明さや快活さが
女の子を呼び込むための単なる小道具だっていうことに、全
然気付かなかったんだ。

マスターの舌先三寸の口説き文句にかあっとのぼせて、ずっ
と一緒に仕事しようと思い詰めて、勤め始めたばかりの会社
を辞め、バリスタ養成校に入り直した。
マスターにはもう奥さん子供がいるってことなんか、これっ
ぽっちも知らないで。

ああ……。
それは騙したマスターよりも、あっさり騙されてしまったわ
たしが悪いんだろう。

マスターにとっては、わたしなんか大勢いるつまみ食い用の
若い子の一人に過ぎない。
一方的にのぼせ上がってたわたしが大バカだっただけ。

わたしとの付き合いが奥さんにばれたマスターは、わたしを
首にして追い払った。
わたしに残ったのは、すぐに消えちゃうラテアート。

そして……いつまでも口の中に残る苦い味だけだった。


           -=*=-


お友達が来てるなら、お客さんのピークは過ぎてるから落ち
着いてゆっくり話したらいいよ。
そういうマスターの勧めに甘えて、わたしはかなこの向かい
の席に腰を下ろした。
その途端にドアベルが派手に鳴って、ばたんと扉が開いた。

わたしと同じくらいの年かなあ。
いかにもエネルギッシュっていう感じの若い女の人が、息を
弾ませながら店にのしのしと入ってきた。

「うーす!」

「お! みこちん、お見限りぃ」

「わはは! ばたばた忙しくてさあ!」

「みたいだな。いいことじゃないか」

「まあね。あ、お勧めコーヒーと今日のケーキちょうだい」

「あいよ」

慌てて席を立って接客しようとしたら、お客さんが手を上げ
てわたしを止めた。

「ああ、いいって。今の時間はのんびりしてて。あたしもそ
うやってたから」

「あの……ここで働かれてたんですか?」

「そ。三年ちょっとね。マスター、あたしの後の人?」

「そう。みこちんみたいに、一人で何人前も出来る人はいな
いよ。今は三人シフトで回してるんだ。その一人。前川路乃
さん」

「シフトかあ。そうだよなあ」

頷いたお客さんは、わたしにぽんと話を振った。

「ここは働きやすいでしょ?」

「はい。そうですね」

「しっかり勉強してってちょうだい。あたしもたっぷり勉強
したからさ」

え? 勉強……って?

そのあとマスターと軽快に突っ込み合っていた女の人は、あっ
という間にケーキとコーヒーを平らげて、ごっそさんと慌た
だしく店を出て行った。

「ははは。相変わらずハイテンポだよなあ」

「明るい方ですね」

「まあね。直情径行の姉御肌。怒らすと、すぐに拳が吹っ飛
んでくる」

マスターが肩をすくめた。
元気でいいなあ……。わたしは思わず愚痴った。

「ああいう方なら……すぐ気持ちを切り替えられるんでしょ
うね」

「いやあ」

それまでにこにこしていたマスターが、ふっと真顔になった。

「違うよ。あのタフなみこちんですら、三年かかったんだ」

「えっ!?」

「親に裏切られ、恋人に捨てられ、その心の傷が元で歌えな
くなった。子供の頃からの大事な夢。人生を懸けてた声楽を
諦めて、音大を中退したんだよ」

げ……。

「自分も含めて、信じられるもの、頼れるものが何もなくなっ
た。全てを失ったんだ」

「……」

「そのどん底から這い上がって、三年でここを卒業した。ほ
んとに大したもんだと思うよ」

「じゃあ、勉強っていうのは……」

「自分ばかり見てたって、答えなんか分かんないさ」

マスターが、わたしに向かってぴしりと言い据えた。

「ここに来るお客さんは、誰もが自分の人生を背負ってる。
それはきれいごとだけじゃないよ。でっかい傷も、醜い感情
もあるんだ」

「でも、そのどろどろをしっかり見て、自分ならどうこなす
かを考える。答えはそこから出てくるよ」

「まさに勉強さ。俺も毎日勉強してる」

「そうですか……」

マスターはそれ以上ごちゃごちゃ言わないで、カウンターの
後ろに戻ってコーヒー豆のローストを始めた。
そうか。焙煎香がきついから、お客さんが多い時には出来な
いもんなあ。

「ねえ、みっち」

じっとマスターを見ていたかなこが、短い溜息をついた。

「うん?」

「ああいう人にアドバイスをもらえるって、いいね」

うん。ここのマスターは、前のあの女たらしの男とは違う。
その口から綺麗事や甘い言葉が出てくることはない。
出てくるのは……どれもそのまま飲み込むには苦い言葉。
砂糖やミルクでぼやかさないコーヒーの苦さ。そのものだ。

「うん……そうね」

かなこは、この喫茶店はわたしにすごく合ってると言い残し
て、安心したように帰って行った。

わざわざわたしに会いに来てくれたかなこ。
でも、それはわたしを心配したからじゃないと思う。
きっとかなこには、わたしに何か相談したいことがあったん
だろう。

かなこがそれを切り出さなかったのは、わたしが甘ったれな
ままで全然変わってないのが分かっちゃったから。
共倒れしそうで、怖くて口に出せなかったんでしょ?
……情けない。後で電話しないとね……。

わたしは、空になった二客のコーヒーカップを見下ろした。

中身が飲み干されたコーヒーカップ。
そこにラテアートがあろうがなかろうが、中身は紛れもなく
コーヒーだ。
そしてかなこの心の中には、わたしの描いたラテアートより、
マスターの苦言の方がしっかりと印象付けられたんだろう。

わたしがそうであるように。

カップの縁をそっと指で弾いて、鳴らした。
ちん。

わたしは……ラテアートをしばらく封印しよう。

マスターが言うみたいに、混ぜ物なしでちゃんと自分ていう
コーヒーの味が分かるようにしないとだめだ。
苦さをいつまでもミルクと砂糖でごまかしていたら、また誰
かに騙されて食いものにされちゃうんだろう。

わたしは、同じ失敗を愚かしく繰り返したくない。

黒くて苦いコーヒーの液面に映る自分。
それを……きちんと見据えないとね。



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(クジラタケ)



閉店直後。
わたしはカップをきれいに洗って、きゅっきゅっと拭き上げ、
カップボードに収める。

「……」

一つだけ手元に残したカップ。
それにスチーマーで泡立てたホットミルクを注いで、ココア
パウダーで文字を記した。

カップをカウンターに置き、床にモップを走らせていたマス
ターに声を掛けた。

「マスター、お先ですー」

「ああ、お疲れ様」

裏口から店を出たわたしは、正面に回り込んでこそっと店内
を覗いた。

わたしの残したラテアートに気付いたマスターが、苦笑と共
にホットミルクをごくりと飲み干した。

それを見届けたわたしは。
星の瞬き始めた淡い夜空を見上げて、小声で呟いてみる。

「ありがとう、くらいならいいよね」





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