《ショートショート 0754》


『若水』


昨日まではひどく機嫌が悪かった空が、一転して笑みを取り
戻し、元旦の朝はさらりと晴れ上がった。

だが、その神々しい光と引き換えに厳しい冷気が地をすっぽ
り覆い尽くし、霜上がりの土が朝日をきらきらと跳ね返して
いた。

土間で桶を背負子にくくりつけていた儀助は、しばらく手を
休めて思案していたものの、諦めたように背負子を担ぎ上げ
た。
草鞋の替えは持ったが、いくら草鞋を替えたところで足が凍
えるのばかりはどうにもならない。

「霜が溶けちまうと道がぬるぬるで難儀するでの。まあ、一
年に一度のことじゃ。冷てえのは我慢せんとならんな」

外に出た儀助は、冷気を確かめるかのように白い息を細く長
く吐き出すと、まだ薄暗い山道をゆっくりと登り始めた。



wak02
(オニノゲシ)



儀助が向かったのは、村外れの柴刈山にある竜泉(りゅうぜ
ん)という小さな泉だ。

井戸水も川水も潤沢に使える村では、わざわざ山中まで湧き
水を汲みに行く者はほとんどいない。
事実、わびしい山道をざくざく霜を踏み鳴らしながら歩いて
いるのは儀助ただ一人であった。

昇竜の跡に湧いたと言い伝えられている泉は、大きな御影石
の割れ目の間に源(みなもと)があり、銅(あかがね)の樋
で引かれた泉の水が、竜を象った口金から絶えずちょろちょ
ろと吐き出されていた。

昇竜伝説には見合わぬ貧相な泉だったが、いかなる渇水の時
にも水が絶えることはなく、しかも誰もが認める美味い水で
あった。

病を得た時には、竜泉の水を飲めば早く治る。
そう信じ込んでいる村人たちは、病魔退散の願掛けをするた
めに泉に詣でることがあり、儀助もかつて竜泉に繁く通い詰
めたことがあったのだ。

竜泉に辿り着いた儀助は背負子から桶を下ろすと、それを傍
に置いて岩体に向かって手を合わせ、しばらく黙祷を続けた。
若水を汲む時には、竜神様に失礼無きよう言を発してはなら
ぬ。儀助はそれを忠実に守っていたが、その沈黙はすぐに破
られてしまった。

「よう、儀助! はよから精が出るのう」

背後から聞こえた甲高い声に応えて、苦笑を浮かべた儀助が
くるりと振り返った。

「惣左。お主も若水を汲みに来たんか?」

「はっはっは! この水でなきゃあうまい飯が炊けん。まし
てや若水じゃからのう」

新年の挨拶も何もない。畑でのいつもの四方山話と何も変わ
らん。まあ、それが惣左じゃ。
苦笑しながらも、儀助は一人の寂しさから解放されて口が軽
くなるのを感じた。

「惣左。先に汲んでええか?」

「お主が先に来たんじゃ。先に汲んでくれ」

「済まんな」

桶を垂れ口の下に置いた儀助は、ふうっと肩で息をつくと、
惣左の隣に並んだ。

「娘が世話をかけるのう」

「いやいや、はるはええ嫁御じゃ。なにより気立てがええ。
婆ともうまくやっとるし、太一も立ててくれる。お主のしつ
けがよかったんじゃ」

「しつけ……か。あやつが乳飲み子の頃から、お主の家に世
話になりっぱなしじゃ。わしゃあ、しつけも何もろくろくし
とらんがな」

「はっはっは! 太一と兄妹みてえなもんだったからなあ」

「んだ」

やっとのことで山の頂に手を掛けた冬の日差しが、木立ちを
縫って二人の頭上にちらちらと届くようになってきた。

それを見上げた惣左が、ふと儀助に尋ねた。

「のう、儀助」

「なんじゃ」

「お主も……女房に往かれてからずっと独りじゃったのう。
後添えはもらわんのか?」

「まあな」

腰に手を当て、儀助は自分が登ってきた山道を見下ろした。

「すえと二人、駆け落ち同然でここへ来て。庄三(しょうぞ
う)んとこの作男から始めて、こつこつ山端の荒地を拓いた。
それこそ泥ぉ噛むような暮らしぃ忍んで、やあっと夫婦二人
ならなんとか食えるってえところまで来て」

「うむ」

「すえは往んでもうた」

「……」

「わしんとこに後添えが来りゃあ、そやつはすえのした苦労
をなんにもせんで済む。すえには……堪らんじゃろう」

「お主も律儀じゃのう」

「はは。ほいでもな」

「ああ」

「なんで、わしだけのうのうと生き延びてしもたんかなあと、
悔やむことがあるんじゃ」

「……」

「竜泉の水が、わしにだけ効いたのかい。龍神様、それはね
えじゃろうとな」

「ううむ」

「じゃがのう」

「うむ」

「やっぱりわしは、竜泉の水を飲んだ甲斐があったわ」

「ほう」

「まさか、男やもめが娘を嫁に出せるとは思わなんだ。しか
も孫まで抱かしてもろた」

「はっはっは! それはお主の行いがええからじゃろう」

「わしの行いなんぞどうでもええ。お主に出会えたことが、
わしの運の全てじゃ。わしをお主に合わせてくれたんが龍神
様なら、それにはどんなに礼を言うても言い足らん」

腰を深く折って、儀助が惣左に頭を下げた。

「これ! こそばゆいわ。新年早々よさんか!」

慌てた惣左が、儀助の背中をばんばんとどやした。
顔を上げた儀助は、惣左に言い足した。

「のう、惣左」

「うん?」

「わしは独りじゃ。田畑(でんぱた)継がす奴がおらん」

「……うむ」

「庄三には書きもんを頼んであるけんど、わしが往んだ後は
お主らが使うてくれ」

「いいのか?」

「山影で地味はよくねえけどよ。それでも苦労して拓いたん
だ。荒地に戻すくれえなら、使うてくれた方がええ」

「うむ」

「太一とはるにも、まだやや子が出来るじゃろう。跡取りの
幸太だけでなく、他ン子もここで百姓が出来りゃあそれが一
番ええ。わしのような苦労は……させとうない」

「確かにな」

「それにな。わしははるにろくな嫁入り道具を持たせること
が出来んかった。その、せめてもの償いじゃ」

泉の水でいっぱいになった桶。
それを持ち上げて足元に下ろした儀助は、桶の水に映った自
分の顔をじっと見つめた。

その顔が歪んで。
水面は儀助の零した涙の波紋でゆらめいた。

「これ、新年早々泣くな。縁起でもねえ!」

惣左に叱られた儀助は、慌てて袖で顔を擦った。
惣左は自分の桶を垂れ口の下に置くと、笑顔で儀助に声を掛
けた。

「めでてえ正月に独りでつくねんとおるから、辛気臭くなる
んじゃ。後で幸太の顔見がてら、酒ぇ飲みに来いや」

「そうじゃな。邪魔するわ」

「はっはっは!」

先にと言い残し、泉水を充した桶を荒縄で背負子に括った儀
助は、霜が溶けて下り道は難儀するだろうと案じながら、山
道を慎重に下り始めた。

「うん?」

霜は完全に溶けていたが、思っていたほど足元が滑らない。
不思議に思った儀助が、よくよく道を確かめると……。
ぬかるんだ道に足を取られぬようにと、道のそこここに真新
しい刈り柴が敷かれてあった。

惣左が、若水を汲みに来るわしらを気遣ってくれたんじゃろ
うなあ……。



wak01



惣左の細やかな心遣いに感じ入った儀助は、背中で静かな水
音を立てる若水に思いを馳せた。
この水を飲んで穢れを祓い、少しは心を洗わねば、と。

「そうじゃの。来年の正月は……わしが柴を敷かねばならん
な」





The Leaning Tower by Bela Fleck ft. The Chieftains