《ショートショート 0746》


『唐紅』


弥山峡(みせんきょう)の切り立った崖の底に、張り付くよ
うに伸びている一本の細い細い山道。

谷底の清流がさらさらと清々しいせせらぎの音を響かせてい
ましたが、その音に耳を傾けることなく、川面に照り映える
紅葉の色にも目も呉れず、一人の修験者が金剛杖を突きつつ
ひたすら歩を繰っておりました。

玉のような汗をこぼしながら、ひたすら難路を登り詰めた修
験者は、少しく日が傾きかけた頃に漸く古びた祠(ほこら)
の元に辿り着きました。

ふう……。

修験者は乱れた息が整うのを待って笠を外し、懐の手拭いで
顔の汗を拭うと、背負子から干し魚の束を慎重に下ろしまし
た。

真っ暗な祠の奥を何度か覗き込んだ修験者は、祠の奥に向かっ
て通る声で呼びかけます。

「宗純どの。宗純どの!」

ごそごそと祠の奥で何かが蠢くような気配がしたと思うと、
年老いた大きな狢(むじな)がのっそり姿を現しました。

「おお、左衛門ではないか。息災であったか?」

「お陰様で。此度は御礼に伺いましてございます」

「礼じゃと?」

「はい。宗純どのには、衣を唐紅に染める貴重な呪法を教え
ていただきました。殿が、衣の見事な仕上がりを殊の外喜ば
れまして」

「ほう」

「手前には過分の褒美を賜りました」

「おお、それは良かったのう」

「手前の手柄ではございませぬゆえ、宗純どのに少しばかり
でも恩をお返し出来ればと存じます」

「うむうむ。いい匂いがしておる」

ぴくぴくと鼻を動かした狢は、眼尻を下げて干魚の山を見回
しました。

「川魚ばかりでは飽きが来ましょうぞ。若狭湾の干魚を取り
寄せましたゆえ、どうぞお納めを」

「却って気を遣わせたのう。済まぬ」

「いやいや、宗純どの。これほどの土産しか持って上がれぬ
非力な手前をどうかお許しくだされ」

「ははは。儂にはこれで充分じゃ。海のものなぞ、このよう
な山奥には到底届かぬゆえな。どれ、折角険しい山路を難儀
して来たのじゃから、一杯やっていってくれ」

「滅相もない」

「いやいや、ここまでわざわざ足を運んでくれるのは、お主
くらいしかおらぬからのう。遠慮は無用じゃ」

ご機嫌の狢は呪を唱えて祠の前に小さな火を熾すと、柴を足
して熾(おき)を作り、左衛門が担ぎ上げた干魚を並べて炙
りました。
暮れかかる山裾に、魚の焦げた旨そうな匂いがぷうんと漂い
ます。

舌舐めずりをした狢は踵を返して祠の奥に一度戻ると、大徳
利と猪口を持って再び出て来ました。

「猿(ましら)の酒じゃが、今年は出来がいい」

「かたじけない。では相伴に預かりまする」

「今宵は言尽くるまで呑み明かそうぞ」



bn1
(ベニカナメ)



熾の明かりを頼りに干魚を齧り、酒を酌み交わし、楽しげに
旧懐を温めていた一人と一匹は、しんしんと夜が更けるに従っ
て口数が減っていきました。

熾の火が四つの目だけを小さく灯すようになった頃。
左衛門が、何かを覚悟していたように切り出しました。

「宗純どの」

「なんじゃ」

「手前、暇をいただくことにし申した」

「……。そうか」

「手前の染めに目を掛けてくださった殿には、申し開き出来
ぬのですが……」

「うむ」

「染められる色数が増える度に、どうしても染まらぬものば
かりが増えてござる」

「染まらぬもの……か」

「はい」

すっと身を引いた左衛門が、右掌を心の臓に当てました。

「ここが……どうしても染まりませぬ」

「成る程」

「宗純どのにお会いするのは、手前には本当に楽しみなこと。
ですがここへ至る道すがら、鮮やかに川面を灼く紅葉にぴく
りとも心が動きませぬ」

「……」

「手前、染めねばならぬものを違(たが)えたように存じま
すれば」

「稀代の染師(そめじ)にも、とうとう染められぬものがあっ
たか……」

「いや、きっと染めて見せまする」

左衛門は強張っていた表情を緩め、残っていた魚の身をせせ
りました。

「ゆっくりと。急かずに染めれば良いのでございましょう」

「はっはっは! そうじゃな。さすがは左衛門じゃ!」

狢はぽんと腹を叩くと、熾に柴を足しました。
消えかかっていた火が一度に勢いを増し、火の粉を撒き散ら
しながら赤々と背を伸ばします。

それをうっとりと眺めていた左衛門が、顔を朱に染めて褒め
そやしました。



bn2
(ドウダンツツジ)



「ううむ。見事な唐紅でございますな」





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