《ショートショート 0743》


『時の影』 (鉛 4)


そもそも時間には形なんかないんだよ。
だから、影もない。影なんか出来るわけがない。

じゃあ、私が今見ている影は何の影だ?



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「鹿野(かの)さん! 鹿野さん、大丈夫ですか?」

ナースコールが押されたわけじゃなかったけれど、大きなう
なり声を聞きつけたわたしは、病室に飛び込んだ。
灯りを点けて鹿野さんの様子を伺う。

「う……うう」

顔中にびっしり脂汗を浮かべた鹿野さんが、横たわっていた
ベッドからゆっくり上半身を起こして、両手で顔を覆った。

鹿野さんは八十半ばのお年寄り。あちこちの臓器の機能低下
でほとんど寝たきりだ。
身寄りはなく、自費でこのホスピス施設に入居している。

がりがりに痩せ細った体。
全身、健全なところはもうどこにも残っていないのに、脳だ
けが異様に冴え渡っていて。記憶力も、論理性も、知性も、
むしろわたしたちよりずっと優れていた。

わたしが鹿野さんから受けていた印象は、真面目な死神だ。
死を目前にした人に見られる感情や思考の動揺や破綻が微塵
もなくて、恐ろしく冷静だから。まるで……死神みたいに。

「どうなさったんですか?」

「ああ、ちょっと嫌な夢を見てね」

「夢……ですか」

死神も夢を見るのだろうか?
いやいや、鹿野さんは死神じゃないし。

わたしの勤めているホスピスでは、延命措置はしない。
痛みや不安感の軽減に薬を使うことはあるけど、それは医師
の持ち場。

患者さんが吐き出そうとする心を最後まで受け入れ続けるこ
とで、静かに死と向き合える時間を確保してあげるのがカウ
ンセラーであるわたしの仕事だ。

「どんな夢だったんですか?」

「……」

顔を覆っていた両手をぽとりと布団の上に落とした鹿野さん
は、わたしではなく宙の一点をじっと見上げて、ぽつりと
言った。

「森井さん。時(とき)に」

「時? 時間ですか?」

「そう、その時。時に、影ってのがあると思うかい?」

「えー? 時間には形がないんですから、影なんてないんじゃ
ないかなあ。時計とかの物ならともかく」

「ああ。私もそう思っていたんだがね」

体を起こしているのがしんどくなったんだろう。
鹿野さんは、ベッドのわずかなへこみに痩せ細った体を落と
し込んだ。

窪んだ眼窩の底の目が宙をぐるりと舐め回し、それから目蓋
がゆっくり閉じられた。

そして。
唐突に告白が始まった。


           -=*=-


「六十年前。まだ戦後のどさくさが色濃く残っていた頃」

「ええ」

「私は資材の個人取引で生計を立てていた。まあ、バッタ屋
に毛が生えたようなものだったがね」

「お一人で、ですか?」

「いや、幼馴染みの橋田っていう男と二人で、ね。商売は順
調で、私も橋田もあの頃にしては裕福な暮らしをしていたと
思う」

「へえー」

「当時私の家は、私だけが働き手だった。没落貴族の成れの
果てで気位だけは高い祖父と病弱な両親、まだ未成年の妹の
五人で暮らしていたんだ」

「でも私は、働かないくせに余計な口を挟もうとする年寄り
三人から早く離れたかった。もう許嫁(いいなずけ)が、敬
子がいたからね」

「あら!」

「ただ、敬子はいいとこの娘でね。私はきちんと稼ぎを上げ
て、まとまった持参金を持って親に挨拶に行きたかったんだ
よ」

「なるほどー。結納金ですね」

「そう。私は大きな取り引きをまとめて、その売り上げ利益
を持参金にしようとした。当時はまだ社会がざわざわしてい
て、手形や信用証書なんざただの紙切れみたいなものでね。
現金と現物が全てだったんだ。でもね」

「はい」

「取り引き先にもう来ているはずの橋田と、渡すはずの資材。
それが……なかったんだよ」

「……」

「私の信用は、それでゼロさ。その取り引きだけじゃなく、
もうどこでも商売が出来なくなった」

「運搬の途中で車が故障して、現場に到着するのが遅くなっ
た。橋田はそういう言い訳をした。本当かどうかは知らんよ」

「だが、橋田は私から掠め取った資材を闇でちゃっかり転売
し、大金を手にしていたんだ」

「もしか……して?」

「そう。その金にものを言わせて、敬子を横取りしたんだよ」

「ひっどいなあ!」

「そして」

「ええ」

「私が事業に失敗して無収入になってしまったことに、気位
の高い祖父が絶望して自棄になってしまってね。私が職探し
で奔走している間に、日本刀で家族全員を斬り殺した挙句に
自害したんだよ」

「ぐ!」

「なぜ? 私は、そんな目に遭わなければならないようなひ
どいことを誰かにしたか?」

「いいえ!」

「だろ? どうしても納得が行かなくてね」

「そりゃそうですよ!」

「敬子には、貴士(たかし)という兄貴がいた。貴士は妹を
溺愛しててね。金にものを言わせて妹をたらし込んだ橋田が
どうしても許せなかった」

「それじゃ、妹さんに意見してくれたんですか?」

「いや、貴士は不具者でね。家では穀潰しの邪魔者扱いされ
ていた。発言権なんか何もなかったんだよ」

「……」

「でも、私は貴士と仲がよくてね。家に行く度によく貴士の
愚痴を聞かされていたんだ。だから私も、家族の葬式に弔問
に来てくれた貴士に愚痴ったのさ。こんな理不尽なことが堂々
とまかり通る世の中なのかってね」

「そりゃそうですよ!」

「貴士は、橋田の裏切りで私が職も家族も許嫁も失ったこと
を、心の底から悲しんでくれた。私には、それで充分だった
んだよ」

「え? 充分……て、それ以外に何かあったんですか?」

「貴士は、橋田の傲岸不遜な態度がどうしても許せなかった
んだろう。それだけじゃない。金に目が眩んであっさり私を
捨てた妹にも、自分を犬畜生扱いする親にも、そして憤る以
外何も出来ない自分自身の不甲斐なさにも絶望したんだ」

「……」

「婚約式の宴席で、自分のも含め、全員の料理に毒を盛った
んだよ」

「!!!」

な……なんてこと。

「あんな外道はさっさとくたばってしまえと思っていた橋田
だけでなく、敬子もその親も貴士も。全員中毒死してしまっ
た」

「……」

「私は、橋田の裏切りは絶対に許せなかった。あいつだけは、
私の人生を賭して地獄の果てまで追い詰めてやろうと考えて
いたのは確かだ」

「ええ」

「でもそれ以前にまず、自分が食ってく方が先だったんだよ」

「そうですか……」

「殺してやると思っただけで重罪を犯したことになるなら、
私に弁明の余地はない。だが私はそれを、あの頃ですら誰の
前でも口にしたことはない」

「今。森井さんに話したのが最初で最後だ」

「……」

「だから、私に罪の意識はないよ。私の家族や友人が勝手に
引き起こした悲劇。私はそれに巻き込まれただけ。でも」

「ええ」

「ただ一人生き残った私のその後の六十年。その『時』は。
結局影だったんじゃないかと思ってさ」

「……」

「まじめに商いをし、誰にも後ろ指を指されないよう真っ当
に生きてきた。だが。生涯独りだったし、心を預けられる友
人も最後まで出来なかった」

「生き残ったはずの私にすら、すでに時の意味がなかったの
かも……な。私は……時の……影……か」

残されていた時を全て使い切ったかのように。
鹿野さんの長い長い悪夢は……そこで幕を下ろした。



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「森井さん、何を見てるの?」

「……」

鹿野さんが亡くなって葬られたあと、真新しい寝具で新たに
整えられた無人のベッドは、ぽっかりと真っ白な腹を曝し、
黙したまま次の患者さんの受け入れを待っている。

そこには誰もいない。だけど……。

最後に全てを吐き出し、心残りなくこの世を辞したはずの鹿
野さんが。

その、時の影が。影だけが。

ベッドにくっきりと焼き付いて、未だに虚空を見つめ続けて
いる。





Time Shadow by John Sokoloff / Bob Wayne