《ショートショート 0739》


『浅紫』


「あれ? 佐野さん、帰っちゃった?」

わたしが美術室の入り口からにょきっと首を出したら、同じ
姿勢で筆を動かしていた四人の三年生が、一斉にわたしを見た。

うーん……まだ慣れないなあ。

「パレット洗いに行ったから、まだ居ると思いますけど」

「そっか。どうしようかなあ」

「河野先生、彼女に何か用ですか?」

一番奥まったところで声を上げたのは、部長の牟田さん。
わたしは彼女が苦手だ。
まじめなのはいいんだけど、まじめ過ぎて融通が利かない。
そして、物の言い方がなってない。

「用ってほどじゃないんだけどね」

「じゃあ、わたしたちの邪魔をしないでください」

「へえい」

これだよ。楽しくやるのが部活じゃん。
そんな、修行僧みたいな態度はいかがなものかと思うけど。
まあ、いいけどさ。

さっさと退散しようと思ったら、もうパレットや筆をきちん
とバッグにしまった佐野さんが、教室の窓越しに差し込む夕
日にちらちら目を遣りながら美術室に戻ってきた。

「ああ、よかった。捕まえた」

「あ、河野先生」

「ちょい、職員室に来てくれる?」

「……。はい、分かりました」



ppl3
(アメリカアサガオ)



牟田さんも苦手なんだけど、この佐野さんて子も本当に苦手。

どうしてって、感情が全く読めないんだ。
喜怒哀楽を最小限しか顔に出さない。
穏やかで地味な子なんだけど、集団の中には埋没しないで、
逆に浮くだろうなと思う。

自己主張がないわけじゃない。
でも、それが表情や態度や言葉に出て来ない。
ものすごーくコミュニケーションが取りにくい。

「で、相談事って?」

その佐野さんからいきなり相談があるって持ちかけられたか
ら、すごくびっくりしたんだ。

「わたし、美術部をやめたいんですけど」

ぴんと来た。

「ああ、部長がうんと言わないんでしょ?」

「そうです」

相当困ってるはずなんだけど、それをまるで別世界の出来事
みたいに淡々と言われてもなあ。

でも、確かに今の状況はどう見てもよくない。
たった五人の部で、二年生は佐野さんだけ。あとは全員三年
で、しかもみんな生え抜きだ。

わたしの前の顧問だった美術の高浜先生と牟田さんが激しく
ぶつかり、勝手にやれと顧問をぶん投げた高浜先生のピンチ
ヒッターをわたしがやってる。
わたしは、絵なんかへのへのもへじしか描けないよ。
見るのは好きだけどね。

高浜先生は徹底して仕切りたがる人だったから、牟田さんた
ちが猛反発するのは分かるけどさ。
その同じやり方を、無神経に佐野さんに押し付けるのはどう
かと思うよ。

だけど、牟田さんたちが佐野さんに嫌悪感を持つ気持ちもよ
く分かる。
だって佐野さん、完全に世界作っちゃうもん。
そこには誰も入れない。

部員が取り組んでるのは油彩なのに、一人だけ頑なに水彩。
それも紫しか使わない。

淡い淡い紫。
その微かな濃淡だけで世界を作る。
独特の絵だ。

うまい下手っていう表現が当てはまらない、オンリーワンの
世界。そこには誰も入れてもらえない。

小人数の部で、まとまって活動したい牟田さんにとっては、
佐野さんの孤立を厭わないつらっとした態度は腹立たしい以
外の何物でもないんだろう。

そんなに一人でやりたいなら、部なんかに入らないで、最初
から一人でやりゃあいいじゃん! ……そう思ってしまうの
も無理はないよね。

しかも、佐野さんが最初からがりがりにとんがってるなら分
かるけど、そういう棘が全く見えない。
恭順も反発もないんじゃ、どう対処していいか分かんない。
わたしに分かんないくらいだから、高校生にはもっとしんど
いだろうなあ。

佐野さんは逆に、威圧的な先輩のいるところじゃ絵は描きた
くないからやめたいって言うわね。
でも牟田さんは、自分たちがいびって下級生を追い出したっ
てことには絶対にしたくないんだろう。
佐野さんが非協力的だからであって、わたしたちのせいじゃ
ない! そう思ってる。だから、退部届を受け取らない。

意固地になっちゃってるんだよなあ……。

「ったく……」

前の顧問の高浜先生だって、確かに頑固な先生だけど指導は
しっかりやってた。
それまでは、顧問としてちゃんと機能してたんだ。
牟田さんたちもまじめすぎるくらいにまじめで、だからこそ
佐野さんが浮くはめになってる。

佐野さんだって、わたしや牟田さんたちに反抗してるってい
うわけじゃない。
描きたいものを描きたいように描かせてください。
それだけだよね。

そして、わたしは元々絵には縁遠い。お気楽門外漢。

誰かが悪いっていうわけじゃなくて、あまりにも噛み合わせ
が悪い。それだけなんだ。それだけなんだけど、わたしにど
うしろっていうわけ? うーん……。

思わず腕組みしてうなっちゃった。



ppl1
(アゲラタム)



でも、顧問のわたしが間を取り持たないとしゃあないね。
描き方を指導出来ないなら、他は何とかやんないとさ。

「とりあえず、佐野さんの退部届はわたしが預かります。部
長はわたしが説得するから、部には顔出さなくてもいいよ」

「はい」

「でもね」

「はい」

「佐野さんの描く絵は、すっごくいい絵だと思うけど、理解
出来ない」

「……」

「わたしは絵に造詣が深いわけじゃないから、偉そうなこと
は言えないけどさ。佐野さんが、絵を通して何を伝えたいの
かがちっとも見えないの」

「はい」

「それが、佐野さんの技術不足によるものか、他の要因によ
るのか、そこには踏み込めないけどさ」

「……」

「絵だけじゃなくて、なんで絵を描くのかっていう動機とか、
それで表現したいものとか、そういうエモが佐野さんから何
も見えないの。絵からも言葉からも態度からも」

「……」

「牟田さんたちが苛立ってるとすれば、そこかな」

「先生は」

「うん?」

「それじゃダメって言ってるんですか?」

「いやあ。わたしはがっさがさだからさあ」

思わず苦笑する。

「佐野さんの好きにすればいいじゃんて思うよ。でも」

「はい」

「わたしがもし佐野さんのクラスメートや部活仲間なら、理
解出来ない子には近付かない。いい悪いじゃないの。事実と
して近付かない」

「……」

「佐野さんがそれをどこまでも割り切れるなら今のままで構
わないし、それじゃいやだなあと思うなら表現する努力をし
た方がいいよね?」

「はい」

「まあ」

「はい」

「やめるにしても、メッセージは残した方がいいと思う」

「メッセージですか」

「うん。佐野さんが何を考えてたかが分かれば、みんなも納
得するでしょ」

「先生もですか?」

「もちろんよ。わたしは、さっき言ったようにがっさがさだ
もん。見たもの、聞いたことが全て。それ以上は深読みしな
いよ。めんどくさ」

ぽいっと放るように言ったわたしの言葉に。
初めて佐野さんが笑みを浮かべた。
それは嬉しいという笑みじゃなく、明らかに苦笑だった。



ppl2
(チョウセンヨメナ)



結局。

わたしが牟田さんを説得して、佐野さんの退部を飲ませた。

部活をするしないは生徒個々人の権利であって、たとえ部長
と言えどもそれを制限することは出来ない。
あなたが勝手に部員にさせられたり、一方的にやめさせられ
たら嫌でしょ?

まあ渋々とではあったけど、なんとか納得してくれた。
わたしは牟田さんを一切責めなかったからね。

そして佐野さんは、わたしのお勧めに従ってメッセージを残
していった。

『わたしは薄いので、濃い世界になじめませんでした。ごめ
んなさい』


なるほどね。

淡い淡い紫。
それが紫であるかどうか、ものすごーく注意して見ないと分
からない。

佐野さんなりに自己表現はしているつもりなんだろう。
でもあまりに淡過ぎて、わたしたちに色を読み取る努力を求
めてしまう。
わたしが紫色だってことを感じ取ってくださいって。

無理だよ。そんなこと。

もちろん、原色ぎらぎらである必要はないけどさ。
でも、それが何色か分かる程度には色が付いてないと、無色
と区別が付かないの。
そうしたら、無理やり他の色を塗りたくられてしまうよ。

わたしはめんどくさいから指図なんかしない。
佐野さんの好きにすればいいと思う。

だけど……。

これから、佐野さんの上に無理やり色を塗りたくろうとする
人は増える。間違いなく、ね。

それがどうしても嫌ならば。
もう少し、自分に乗せる色を濃くしないとさあ。

佐野さんのいつもの筆致。
ワトソン紙に淡い紫で描かれたポストカードサイズの海辺の
絵。
わたしの手元に残された佐野さんの痕跡はそれだけだ。

最後まで貫かれた浅紫の世界の不愉快さに、ちょっと顔をし
かめて。

わたしはそれを、机の引き出しの奥にぽいっと放り込んだ。





Madeline by Tudor Lodge