《ショートショート 0741》
『運命の輪』 (鉛 2)
幸運と幸福、不運と不幸は、似ているようで違う。
運不運は、単純な確率の問題だ。
幸運だけを引き寄せることも出来なければ、不運を避け切る
ことも出来ない。
幸運を引き寄せることが出来るなんてことをほざいている奴
は、そいつがくたばった途端にくそみそに言われるだろう。
なんだ看板倒れかよってね。
運不運は、結局確率論かつ結果論に過ぎないんだよ。
幸不幸はそれとは全く違う。
何を以て幸福、不幸と感じるかという基準が、運不運よりも
ずっと曖昧で恣意的だからだ。
幸不幸を仕切る閾値を変えることで、人は幸不幸にうんと鈍
感にも敏感にもなる。
しかも、それは精神にとどまらず、様々な物体やイベントに
依存する。
そして運不運と幸不幸は、それらが全く異なる概念である以
上、必ずしも分かりやすくリンクしないんだよ。
幸運であっても不幸。
不運であっても幸福。
……そういうのがありうるってこと。
そして、俺のくだらん懐古なんざ一顧だにせず、運命の輪は
回るんだ。
ぎしぎしとね。
「チーフ。何見てるんですか?」
「ああ、ずっと前に起きた高速道路上の多重衝突事故。その
現場写真さ」
ひょいと写真を覗き込んだ岡田さんが、口元を押さえて顔色
を変えた。
「悲惨だろ?」
「こういう商売してても、出来れば見たくないです」
「そう。メディアでは、もろの画像は出さないからね。これ
はお蔵入りになった写真」
「うう……吐きそう」
「裁判員で駆り出されると、ケースによっては俺らでなくて
もこういうのにも向き合わないかん。嫌な時代になったもん
だな」
「ふつーの人には無理ですよー」
「まあね」
「でも、チーフ。なんでわざわざそんなのを引っ張り出した
んですか?」
「昨日、一つの裁判が終わった。判決が出て、ある男が勝訴
したんだ」
「へえ……」
俺は、隣のデスクの椅子を引っ張り出し、それを岡田さんに
勧めた。
俺の話は長くなると思ったんだろう。岡田さんが、ひょいと
椅子に座った。
「不調で、高速道路上で動けなくなりそうになった車が、な
んとか路側にまでたどり着いた」
「うん」
「ハザードを点けてから車を出て、三角反射板を置いて発煙
筒を炊き、近くの電話ボックスから道路事務所に連絡をして、
事態を知らせた」
「車をレッカー移動させるので、それまで安全な場所に退避
していてくださいと指示を受けた運転手の男は、指示通り車
から離れた」
「はい」
「男の行動に、何の落ち度もないだろ?」
「ないですね。マシントラブルの時の模範行動です」
「ところが、だ」
「うん」
「路側に停車していた故障車に、よそ見運転をしていたタン
クローリーが突っ込んで横転。そして炎上したんだ」
「げええええっ!?」
岡田さんが、さっきの写真に顔を突っ込んでくる。
「そ、それじゃ……」
「そう。タンクローリーの運転手は、運転席からは出られた
けど火の海は抜けられなかった。焼死」
「……」
「それだけじゃない。現場がカーブの先にあって、状況が遠
くからは分かりにくかったんだよ。道路を塞ぐ形になってい
たタンクローリーに、後続の車が次々に突っ込んで、大惨事
になった」
「あ……」
「衝突車両は、八台。焼死者六名、重軽傷者十名。とんでも
ない大事故に膨らんでしまったんだ」
「運が悪いも……いいとこですね」
「まあね。事故に巻き込まれた人たちにとっては、まさに晴
天の霹靂さ。ただね……」
「はい」
「現場に故障車がなければ、そういう事故は起きなかったん
だよ」
「でも、運転手は全ての義務を果たしたんですよね!?」
「もちろんだよ。後続車にトラブルを知らせる手立てをした
後、路上で事故に遭わないよう安全な場所に速やかに退避し
なさい。そういう指示通りさ」
「ええ」
「だけど、事故を起こしたタンクローリーの運転手は、過失
の大元であっても、もう亡くなってるんだよ」
「……」
「突然事故に巻き込まれた、何の関係も落ち度もない後続車
の遺族。その憤怒の感情はどこに向く?」
「そうか……それが」
「無事だった故障車のドライバーに向けられてしまったんだ」
「……」
「自分が事故の巻き添えを食わなかったという点では、故障
車のドライバーは幸運さ。じゃあ、彼は幸福かい?」
「……いや」
はあ……。思わず溜息が出てしまう。
「落ち度がない彼には、裁判で負ける要素なんか何もないよ。
でも、いちゃもんに近い裁判が続いて精神的に疲弊し、結局
職も家庭も失ってる」
「不幸に……なってしまったんですね」
「そういうこと。そしてね」
「はい」
「運命の輪が回れば、それは否応なしに別の運命の扉を開け
てしまうんだよ」
「どういう意味ですか?」
「巻き添えを食った被害者の中に、俺の娘が入ってたのさ」
「!!」
「まだ二十三だった」
「そうだった……んですか」
「俺らに運不運には関係ないと思っていても、そういう瞬間
は……やっぱり来てしまうんだよ」
「それで、その写真を……」
「そう。これは、娘。そして、俺と俺の家族の運命を変えた
日を忘れないための重要なショット」
「チーフは……突然悲劇の中に放り込まれてしまったんです
ね」
俺は、皮肉っぽい笑いを浮かべて、その写真をぽんと机の上
に放った。
「逆だよ。この事故は俺に幸運と幸福を運んできてくれたん
だ」
「え? ええっ!? ど、どしてっ!?」
岡田さんが、激しく狼狽する。
「俺の娘はね、どこでどう道を間違えたのか知らんが、成人
してからどうしようもなく腐ってしまったんだよ」
「……」
「倫理観、特にオトコ関係のところが完璧に壊れてしまって
ね。露骨な不倫を、付き合ってる男の奥さんや家族に見せつ
けるようにして次から次とやらかしてたのさ」
「それって……」
「俺も、家内も、息子も、何度も忠告したり諌めたりしたが、
これっぽっちも効き目がない。それでいて、厄介ごとだけを
俺らに押し付ける」
「男どもの関係者が娘にいくら正論を突きつけたところで、
聞く耳なんか持ってなかったからね。そのとばっちりが、全
部俺らに降って来たのさ」
ぎっ。
爪で、デスクの上を強く引っ掻く。
「その時俺らは、あいつを殺すしかないというところまで、
精神的に追い詰められていたんだ」
「……」
「事故があった時、車のハンドルを握っていたのは不倫相手
の男だ。娘が何の『ハンドル』を握っていたかは知らんがな」
「事故を回避出来なかったのは娘のせいじゃない。運転して
いた男の責任だ。俺らはそれをたてに、娘に関わっていた男
の家族に加害責任を押し返せた。まさに、死人に口無しさ」
とん。
写真の黒焦げ焼死体を指差して、嘲笑する。
「はっはっは! やれやれ、ぶっ殺す手間が省けた。それが
俺ら家族の正直な思いだった」
「……」
「事象だけ見れば、それは確かに不運で不幸だよ。くたばっ
た娘にとっては間違いなくそうだろう。でも俺らにとっては、
この上なく幸運で幸福な出来事だったんだよ」
真っ青になったまま言葉を失っていた岡田さんは、辛うじ
て口を開くと俺に聞き返した。
「チーフは……それでいいんですか?」
「いいも悪いもないさ。幸運も不運も突然来る。来てしま
うんだよ」
「……」
「俺らがどう受け止めるか。それだけさ」
「今でも、娘さんを恨んでらっしゃるんですか?」
「いや、娘はもういないからね。恨みようがないよ。それ
は幸不幸という枠外にある」
「……」
「それが、十年経ったということなんだろう」
The Wheel by Grateful Dead
バンド名からして尊厳死ですから。(^^;;
でも、ゆるゆると。時は流れて行きます。
ジェリー・ガルシアの死後もずっと。
……運命の輪を回しながら。
『運命の輪』 (鉛 2)
幸運と幸福、不運と不幸は、似ているようで違う。
運不運は、単純な確率の問題だ。
幸運だけを引き寄せることも出来なければ、不運を避け切る
ことも出来ない。
幸運を引き寄せることが出来るなんてことをほざいている奴
は、そいつがくたばった途端にくそみそに言われるだろう。
なんだ看板倒れかよってね。
運不運は、結局確率論かつ結果論に過ぎないんだよ。
幸不幸はそれとは全く違う。
何を以て幸福、不幸と感じるかという基準が、運不運よりも
ずっと曖昧で恣意的だからだ。
幸不幸を仕切る閾値を変えることで、人は幸不幸にうんと鈍
感にも敏感にもなる。
しかも、それは精神にとどまらず、様々な物体やイベントに
依存する。
そして運不運と幸不幸は、それらが全く異なる概念である以
上、必ずしも分かりやすくリンクしないんだよ。
幸運であっても不幸。
不運であっても幸福。
……そういうのがありうるってこと。
そして、俺のくだらん懐古なんざ一顧だにせず、運命の輪は
回るんだ。
ぎしぎしとね。
「チーフ。何見てるんですか?」
「ああ、ずっと前に起きた高速道路上の多重衝突事故。その
現場写真さ」
ひょいと写真を覗き込んだ岡田さんが、口元を押さえて顔色
を変えた。
「悲惨だろ?」
「こういう商売してても、出来れば見たくないです」
「そう。メディアでは、もろの画像は出さないからね。これ
はお蔵入りになった写真」
「うう……吐きそう」
「裁判員で駆り出されると、ケースによっては俺らでなくて
もこういうのにも向き合わないかん。嫌な時代になったもん
だな」
「ふつーの人には無理ですよー」
「まあね」
「でも、チーフ。なんでわざわざそんなのを引っ張り出した
んですか?」
「昨日、一つの裁判が終わった。判決が出て、ある男が勝訴
したんだ」
「へえ……」
俺は、隣のデスクの椅子を引っ張り出し、それを岡田さんに
勧めた。
俺の話は長くなると思ったんだろう。岡田さんが、ひょいと
椅子に座った。
「不調で、高速道路上で動けなくなりそうになった車が、な
んとか路側にまでたどり着いた」
「うん」
「ハザードを点けてから車を出て、三角反射板を置いて発煙
筒を炊き、近くの電話ボックスから道路事務所に連絡をして、
事態を知らせた」
「車をレッカー移動させるので、それまで安全な場所に退避
していてくださいと指示を受けた運転手の男は、指示通り車
から離れた」
「はい」
「男の行動に、何の落ち度もないだろ?」
「ないですね。マシントラブルの時の模範行動です」
「ところが、だ」
「うん」
「路側に停車していた故障車に、よそ見運転をしていたタン
クローリーが突っ込んで横転。そして炎上したんだ」
「げええええっ!?」
岡田さんが、さっきの写真に顔を突っ込んでくる。
「そ、それじゃ……」
「そう。タンクローリーの運転手は、運転席からは出られた
けど火の海は抜けられなかった。焼死」
「……」
「それだけじゃない。現場がカーブの先にあって、状況が遠
くからは分かりにくかったんだよ。道路を塞ぐ形になってい
たタンクローリーに、後続の車が次々に突っ込んで、大惨事
になった」
「あ……」
「衝突車両は、八台。焼死者六名、重軽傷者十名。とんでも
ない大事故に膨らんでしまったんだ」
「運が悪いも……いいとこですね」
「まあね。事故に巻き込まれた人たちにとっては、まさに晴
天の霹靂さ。ただね……」
「はい」
「現場に故障車がなければ、そういう事故は起きなかったん
だよ」
「でも、運転手は全ての義務を果たしたんですよね!?」
「もちろんだよ。後続車にトラブルを知らせる手立てをした
後、路上で事故に遭わないよう安全な場所に速やかに退避し
なさい。そういう指示通りさ」
「ええ」
「だけど、事故を起こしたタンクローリーの運転手は、過失
の大元であっても、もう亡くなってるんだよ」
「……」
「突然事故に巻き込まれた、何の関係も落ち度もない後続車
の遺族。その憤怒の感情はどこに向く?」
「そうか……それが」
「無事だった故障車のドライバーに向けられてしまったんだ」
「……」
「自分が事故の巻き添えを食わなかったという点では、故障
車のドライバーは幸運さ。じゃあ、彼は幸福かい?」
「……いや」
はあ……。思わず溜息が出てしまう。
「落ち度がない彼には、裁判で負ける要素なんか何もないよ。
でも、いちゃもんに近い裁判が続いて精神的に疲弊し、結局
職も家庭も失ってる」
「不幸に……なってしまったんですね」
「そういうこと。そしてね」
「はい」
「運命の輪が回れば、それは否応なしに別の運命の扉を開け
てしまうんだよ」
「どういう意味ですか?」
「巻き添えを食った被害者の中に、俺の娘が入ってたのさ」
「!!」
「まだ二十三だった」
「そうだった……んですか」
「俺らに運不運には関係ないと思っていても、そういう瞬間
は……やっぱり来てしまうんだよ」
「それで、その写真を……」
「そう。これは、娘。そして、俺と俺の家族の運命を変えた
日を忘れないための重要なショット」
「チーフは……突然悲劇の中に放り込まれてしまったんです
ね」
俺は、皮肉っぽい笑いを浮かべて、その写真をぽんと机の上
に放った。
「逆だよ。この事故は俺に幸運と幸福を運んできてくれたん
だ」
「え? ええっ!? ど、どしてっ!?」
岡田さんが、激しく狼狽する。
「俺の娘はね、どこでどう道を間違えたのか知らんが、成人
してからどうしようもなく腐ってしまったんだよ」
「……」
「倫理観、特にオトコ関係のところが完璧に壊れてしまって
ね。露骨な不倫を、付き合ってる男の奥さんや家族に見せつ
けるようにして次から次とやらかしてたのさ」
「それって……」
「俺も、家内も、息子も、何度も忠告したり諌めたりしたが、
これっぽっちも効き目がない。それでいて、厄介ごとだけを
俺らに押し付ける」
「男どもの関係者が娘にいくら正論を突きつけたところで、
聞く耳なんか持ってなかったからね。そのとばっちりが、全
部俺らに降って来たのさ」
ぎっ。
爪で、デスクの上を強く引っ掻く。
「その時俺らは、あいつを殺すしかないというところまで、
精神的に追い詰められていたんだ」
「……」
「事故があった時、車のハンドルを握っていたのは不倫相手
の男だ。娘が何の『ハンドル』を握っていたかは知らんがな」
「事故を回避出来なかったのは娘のせいじゃない。運転して
いた男の責任だ。俺らはそれをたてに、娘に関わっていた男
の家族に加害責任を押し返せた。まさに、死人に口無しさ」
とん。
写真の黒焦げ焼死体を指差して、嘲笑する。
「はっはっは! やれやれ、ぶっ殺す手間が省けた。それが
俺ら家族の正直な思いだった」
「……」
「事象だけ見れば、それは確かに不運で不幸だよ。くたばっ
た娘にとっては間違いなくそうだろう。でも俺らにとっては、
この上なく幸運で幸福な出来事だったんだよ」
真っ青になったまま言葉を失っていた岡田さんは、辛うじ
て口を開くと俺に聞き返した。
「チーフは……それでいいんですか?」
「いいも悪いもないさ。幸運も不運も突然来る。来てしま
うんだよ」
「……」
「俺らがどう受け止めるか。それだけさ」
「今でも、娘さんを恨んでらっしゃるんですか?」
「いや、娘はもういないからね。恨みようがないよ。それ
は幸不幸という枠外にある」
「……」
「それが、十年経ったということなんだろう」
The Wheel by Grateful Dead
バンド名からして尊厳死ですから。(^^;;
でも、ゆるゆると。時は流れて行きます。
ジェリー・ガルシアの死後もずっと。
……運命の輪を回しながら。