《ショートショート 0740》


『化け物の皮』 (鉛 1)


世の中ってのは、『常識』という名の化け物にがんじがらめ
に縛られている。
俺らがその化け物の支配を受けなければならない以上、無為
に逆らうことには意味がない。
食われてお陀仏になるだけだからな。

そして残念なことに、化け物ってのは一匹だけじゃない。
もう一匹『宗教』っていう化け物もいて、こいつもなかなか
強大で厄介だ。

俺らが如き穏健な異端者は、我が物顔で跋扈跳梁する化け物
の餌食にならないように化け物の死角に入り込み、ひっそり
息を潜めるしかない。

もっとも化け物っていうのは、正体がはっきりしているほど
その皮を利用出来る。
皮を被って常識的で敬虔な信者を装えば、それを必要以上に
疑うのは俺ら以上に非常識な不敬者だけだ。
俺らがアウトローとして断罪されるリスクは、極めて小さく
なる。

俺がメイスとの偽装結婚に踏み切ったのも、そういう理由だっ
た。

レズのメイス。
ゲイの俺。

厳格な信者の多いこの国でその事実をおおっぴらにすれば、
俺たちの居場所は即座に無くなる。
異端者の俺たちにとって、『夫婦』という皮を被って共同生
活することは、極めて合理的な化け物からの避難方法だった
のだ。

夫婦という核は全ての社会制度の根幹にあり、俺たちは社会
からの恩恵を百パーセント受けることが出来る。
二人分の収入であり、社会保障制度であり、社会的信用であ
り……。

公式の場所に夫婦の形で顔を出せば、宗教という化け物にも
うまく対応出来る。
本物の夫婦と違って、離婚という宗教的にものすごく難易度
の高い試練を考える必要がないから、素顔のままで無理に化
け物と戦うよりもずっと安全なのだ。

唯一、夫婦が家族という形に発展しないという点だけが不自
然になるが、それは医学的な理由を捏造すれば事足りる。
大した障害ではない。

夫婦を偽装するのは俺たちに限ったことではなく、他にも同
じ方法を選択しているやつはいっぱいいる。
化け物には全て死角があり、しかも俺たちはしたたかに化け
物の皮を利用できるってことだ。ちょろいもんさ。

ああ。
俺たちは完全にナメてたんだよ。化け物ってやつをね。



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だが。
俺たちは、突然窮地に陥っていた。

それは、俺たちが本当に夫婦であればなんの問題もない、む
しろ祝福すべき事態だった。
化け物どもも、手を叩き、足を踏み鳴らして喜んでくれただ
ろう。

でも、俺たちにとっては最悪の事態だった。

「なんだよ、これ!」

「わ、分かんないわ。どういうこと?」

真っ青になった俺たちが見つめていた一枚の写真。
それは、メイスの妊娠を明示しているエコー画像だった。

体調が良くないと病院に行ったメイスは、ご懐妊おめでとう
ございますという悪夢の宣言を突きつけられ、放心状態で帰っ
て来たのだ。

当たり前のことだが、俺は女が嫌いだ。
ぶよぶよでひ弱な、スライムみたいなものを抱くつもりはさ
らさらない。
もちろんメイスも、粗暴でわがまま勝手な男という人種を蛇
蝎の如く嫌ってる。

俺とメイスの寝室は別だし、同居はしていても同衾したこと
なんざ一度もない。
俺たちの同居はあくまでも世間を欺くためであり、俺たちは
夫婦という名称のビジネスパートナーではあっても、神が祝
福したもう神聖な夫婦などでは決してない。

ビジネスである以上そこには契約とルールがあり、それをど
ちらかが破れば二人とも破滅してしまう。
だからこそ、愛情なんていうあやふやなもので繋がれている
一般夫婦よりもずっと結束が固いのだ。

それだけに、この予想外の事態は固いはずの結束を一気に崩
壊させることになった。

俺は……必死に考えた。

俺がメイスを孕ませたという事実がない限り、メイスがどこ
かで誰かに孕まされたということになる。
そして、その事態が生じるいくつかの可能性がある。

メイスが実は両刀使い? だとすればメイスの自己申告に虚
偽があったということになるが、あいつの男嫌いは本当に徹
底してる。それは考えにくい。

メイスが誰かにレイプされた? もしそういう事態があった
ならメイスにとっては不可抗力だが、さすがに俺が事態に気
付くだろうし、メイスも妊娠を避けるための対処をするだろ
う。

だとすれば……。

「おい、メイス」

「……」

「おまえ、今誰と付き合ってる?」

「それには……踏み込まないはずでしょ?」

「そんなことが言える状況か?」

「……」

「俺と一緒に墓穴に入りたくなかったら、正直に申告するん
だな」

真っ青な顔で黙り込んでいたメイスは、渋々口を割った。

「イエナよ」

「その前は?」

「リブ」

「どこで切り替えた?」

何かに気付いたように、メイスが口元に手をやって、目をかっ
と見開いた。

「あ、ああ……」

「バカが。俺はエイズの心配だけすりゃあいいが、おまえは
そうはいかんだろがっ! ピルぐらい飲めやっ!!」

があん!

俺はぶち切れて、テーブルを力任せにひっくり返した。

そうさ。ドジこいたのはメイスだ。
リブっていう女と切れる時に、嫉妬にかられたそいつに罠を
仕掛けられたんだろう。張り型に誰かの精液が仕込んであっ
た。それしか考えられない。

俺は、頭に血が上った。
このままじゃ、俺まで巻き添えで破滅だ。
ぶっ殺してやりたい!

いいか? メイス!
おまえが孕んだってことは、世間様から見りゃあ俺がおまえ
を抱いて孕ませたってことになるんだよっ!
それを俺の彼に……ジャグに勘ぐられてみろっ!

……俺は……捨てられちまう。

べそべそと泣き出したメイスを見て、俺は本気でぶっ殺して
やろうかと思った。
これだから女は嫌いだっ!!

こんなクソ女なんざぶったらかしてさっさととんずらしたい
が、常識という化け物から見れば、それは夫である俺の論外
な裏切り行為になっちまう。

「く……そったれ!」

ひっくり返ったテーブルに何度も蹴りを食らわしながら、必
死に対処を考えた。

この国では堕胎は許されていない。
メイスはどんな理由があっても産むしかない。
父親が俺でないことは確かだから、検査して父親が俺でない
ことを立証すれば、不貞の事実を突きつけてこのクソ女を地
獄に落とすことは出来る。

だがそうすると、生まれて来るガキの面倒を俺一人で見ない
とならん。
それもまた……身の破滅だ。

俺は改めて、常識と宗教っていう化け物の強大さ、凶暴さを
思い知ることになった。

どうする? どうすりゃいい?

「……」

俺は、このクソ女との同居をさっさと解消し、どこかにとん
ずらすることばかりを考えていた。
だが、俺が逃げ込めそうな場所はどこにもなかった。
同居を解消した途端に、全ての不利益が書類上の夫である俺
にだけ降りかかってくるのが一目瞭然だったからだ。

うまく利用出来ると思っていた化け物の皮。
だが、それは羊や兎の皮ではない。
皮だけであってもやはり化け物なのだと……心底思い知らさ
れた。



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「待てよ……」

そうか。俺らがまだ使っていない皮があるじゃないか。
それは一度きりしか使えないが、今使わないと意味がない。

「メイス!」

「……う」

「すぐに旅行の支度をしろ!」

「??」

「この国じゃ堕ろせねえ。堕ろせるところに行くしかねえ!」

「あ!」

バカ女にも、俺の意図したことが分かったんだろう。

「勤め先に、新婚旅行の名目で休暇の届けを出せ! 俺も明
日出す」

「分かった」

そう。
化け物の力が弱いところに行けば。
それが一時的であっても、別の手が使える。
新婚旅行先で運悪く流産。それは決して珍しいことじゃない。

俺はメイスに指を突きつけてがなった。

「いいか? 今回のは、ひゃっぱーおまえのミスだ。俺には
何の落ち度もねえ!」

「……うん」

「渡航と滞在にかかる費用、向こうでの手術費、俺はびた一
文出さん! 俺の分まで全部おまえが持て!」

「……」

メイスがしおしおに萎れた。
反論出来るもんならしてみろってんだ!

「向こうから帰ってきたら、ペナルティを課す。少なくとも
一年間は休職して専業主婦をやってもらう。その間外出は一
切禁じる!」

「そ、そんな……」

「流産した妻が戻ってきた早々に嬉々として遊び歩いたら、
世間様はどう見る? このくそったれがっ!」

「……」

「缶詰が嫌なら出て行くんだな。ただし、俺がちゃんと世間
様から同情してもらえる形でな!」




 注:
 南穂さんからのリクエストに基づいて構築しました。
 ミステリーの部分が弱いかもしれませんが、本当のミステリーはこの後から。二人の対等な関係が崩れ、そこに支配が入り込んでから始まるんです。それがどういう結末になるかは、みなさんのご想像にお任せいたします。






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