《ショートショート 0733》


『籠を出る』


アイオスは。
忸怩たる思いで、足元に散らばった美しい羽の破片をじっと
見下ろしていた。



cag2
(ツマグロヒョウモン)



ガグジの総督として着任したアイオスは、総督としての職務
を堅実にこなしている割には評判が安定しなかった。

総督でありながら、アイオスには地位や財宝に対する執着が
一切なく、歴代の俗物総督に慣れていたガクジの市民たちに
とっては理解しにくい存在だったからだ。

しかし。
市民にとってはただの変わり者で済むかもしれないが、困っ
たのはギルドの商人たちであった。

総督に密かに賂(まいない)を渡して手なずけておかなけれ
ば、皇帝の発する施策の情報を事前入手出来なくなる。
政府の朝令暮改に振り回されると商売に差し障る商人たちに
は、総督と誼(よしみ)を結んでおくことがどうしても必要
だったのだ。

商人たちは、アイオスの使用人を通じてなんとか嗜好を聞き
出そうとしたが、物に一切の執着を示さず、見かけは奴隷と
なんら変わらぬ質素な暮らしをしていると聞かされ、策に窮
してしまった。
強引に宝物や金を置いて行こうとしたこともあったが、いつ
も丁寧に送り返されてしまう。

『それが必要な者に与えてくれ』

との一文が添えられて。

困り果てた商人たちは、評判がよくないものの腕はいい魔術
師のソロスに、総督が受け取ってくれそうな贈り物を作って
くれないかと頼み込んだ。

魔術師と言っても、ソロスは杖を振れば何でも出せるという
手合いではなく、得体の知れない科学者崩れ。
そして、どうしようもない俗物であった。
酒と女が大好きで、享楽を得るためには己の知恵を如何様に
も使おうとした。
そこには、節操という概念は微塵も入っていなかった。

残念なことだが、そういう俗物は世の中全てが自分と同じ価
値観で出来ていると見なす。
当然ソロスは、己の信奉する価値観に全く当てはまらないア
イオスの取り澄ました生き方が大嫌いであった。

商人たちの依頼をこれ幸いと引き受けたソロスはほくそ笑み、
あるものを作ってアイオスに贈ることにした。

「あんたの化の皮を、目の前でひん剥いてやるよ」


           -=*=-


総督と密かに会えるまでは決して箱を開けるなとソロスに厳
命されていた商人のテオピュロスは、自分の持ち込んだもの
が何か分からぬまま、個室での謁見に臨んだ。

「総督さま。秘密裏にお目にかけたいものがございます」

「なんじゃ」

「とても珍しいものを入手しましたので、ぜひとも総督にお
届けしようと思いまして」

こやつらも懲りぬのう。
そう思いながらうんざり顔で箱を見ていたアイオスは、箱か
ら取り出された金色の籠と、その中に居たものを見て思わず
息を飲んだ。

箱の中身を知らなかったテオピュロス自身も、籠の中のもの
を見て絶句していた。
ソロスのやつ、とんでもないものを作りよって……と。

だが、すぐに突き返されるかと思われたその籠を手にしたア
イオスは静かに言った。

「預かる」

「え? ぜひとも受け取っていただきたいのですが……」

「預かる」

無理に押し付けて機嫌を損ねるよりは、一時でも手元に置い
てもらった方がまだ取り入るチャンスがある。 
そう判断したテオピュロスは、それ以上は押さずに引き下がっ
た。

「承知しました」


           -=*=-


ソロスがこしらえて、テオピュロスを介してアイオスの元に
持ち込んだもの。
それは、美しい蝶の羽を有したニンフだった。

テオピュロスは『捕らえた』と説明したが、そんなものが実
在するはずはない。
ソロスは、持ち前の能力をニンフもどきを作ることに注ぎ込
んだのだ。

金色の籠には文が結わえてあり、ニンフは儚い存在ゆえ籠の
中でしか存在しえぬ、すなわち籠を出るとたちまちに消える
と記されていた。

ニンフは、小さいながら人間の若い女性の顔と裸体を持って
いたが、その中身は所詮蝶に過ぎない。
当然のことながら、外に逃れようとして小さな籠の中をせわ
しなくぱたぱた飛び回った。

籠から出さぬ限り自由を渇望して狂ったように飛び続け、籠
から出せばすぐに息絶える。
ニンフに押し込められている破滅的な運命が、籠を眺めてい
たアイオスを容赦なく責め立てていた。

静かな部屋の中に、ニンフが羽を打つ音だけがしばらく響き
渡っていたが、意を決したアイオスは籠の扉を開けた。

それを待っていたかのように、歓喜の表情を浮かべたニンフ
が扉から飛び出し、一瞬宙に舞ったかと思うとすぐに羽だけ
を残して消えた。
美しい羽は千々に砕けながらアイオスの足元に散らばり、ア
イオスは苦悶の表情を浮かべながらそれを見下ろした。

ソロスのこしらえたニンフの顔と裸体。
それは、かつてのアイオスの妻の写しであった。

アイオスが溺愛して屋敷に囲い込んだものの、奔放な妻はそ
れを好しとせずに使用人と通じて屋敷から逃げ出し、身を持
ち崩した挙句に盗賊に斬り殺された。

ソロスはアイオスの過去をえぐり出し、同じ惨劇を目の前で
再現して見せたのだ。
しかも、今度はアイオス自らの手でそうするようにと。

散らばった羽を見下ろしながら、アイオスは無言のまま自問
自答を繰り返していた。

自由を得ることはいつでも出来るが、自由であることを保つ
には己が強くなくてはいけない。
籠から出ることが自由なのではなく、籠を出ても生きていけ
ることが、真の自由なのであろう。

ならば……。


           -=*=-


アイオスは自らの権力を振りかざす総督ではなかったが、初
めてその力を公然と使った。
ソロスを捕らえて、地下牢に幽閉したのだ。

「ソロスとやら。お主は自由がただで手に入ると思っておろ
う?」

牢の中のソロスが憤怒に満ちた視線をアイオスに向けたが、
アイオスはそれを一顧だにせず坦々と言い渡した。

「与えられた自由など一瞬で失われる。お主が真に自由を欲
するのであれば、己の力でそれを奪い取るがよい」

「……」

「もしお主が誰かに望まれる存在であれば、必ずやお主を自
由の身にしようと尽力する者がおるはずじゃ。儂は、その働
きかけまでは妨げぬ」

アイオスは牢に繋がる扉を幾重にも封鎖し、さらに土でぶ厚
く塗り固めた。
ソロスが放り込まれた籠は……堅く閉ざされたのである。

一方でアイオスは、ニンフを持ち込んだテオピュロスを咎め
なかった。

「お主たちには申し訳ないが、儂には賂の意味はない。それ
でお主たちが困るということであれば、儂が退くしかなかろ
う?」

厳罰を覚悟して這いつくばっていたテオピュロスは、それを
聞いて仰天した。

「総督さま! と、とんでもございませぬ!」

「いやいや、お主たちの気持ちもよく分かる。じゃが、儂が
ここガグジの籠に入っておる間は、儂もお主たちも自由に動
けぬ。窮屈でかなわぬ」

「……」

「儂が籠を出るゆえ、それで勘弁してくれ」



cag1



皇帝に辞職を申し出て認められたアイオスは、船でフェニキ
アに渡った後に消息を絶った。

アイオスがそこで己の翼を散らしたのか、それとももっと遠
くまで自由を欲して翔び続けることが出来たのか。
それは誰にも分からない。

分かっているのはただ一つ。

……彼が籠を出たという事実だけであった。





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