《ショートショート 0728》


『徒手空拳』


子供の頃に、ほんの少しだけ空手を習ったことがある。
いや正確に言えば、習ったっていうより何日か真似をしただ
けなんだけど。

続けなかったのは、空手がわたしに合わなかったからじゃな
く、教えていた先生が苦手だった、それだけの理由だ。

しんちゃん先生。

まだ若いその先生は、子供たちにすごく人気があった。
背が高くて、立ち姿がきれい。顔も彫りが深くて、ちょっと
日本人じゃない血が混じってるみたいで、すごくかっこよかっ
たんだ。

礼儀にはうるさかったけど、いつもにこにこしててがみがみ
怒らない。教え方も丁寧で、無茶を言わない。
わたしたちの親からも、まだ若いのによく出来た人だと支持
されていたんだ。

でも子供っていうのは、好き嫌いがはっきりしている。
オトナのように、上辺を取り繕うってことが出来ない。
いい人だろうが人格者だろうが、ダメなものはダメなの。

わたしがしんちゃん先生を敬遠したのは、しんちゃん先生に
変な癖があったからだ。

しんちゃん先生は、何かとことわざみたいのをぶちかますの
が好きだった。
そんなの、わたしたちみたいな子供に分かるわけない。
どんなに丁寧に意味を説明してくれてもね。

それよか、テレビとかマンガとかゲームの話をしようよ。
そういう子供たちのリクエストは、さっくりと無視された。

先生がことわざの話をし始めるたびに、大人と子供の絶対に
縮まらない距離を見せつけられてるような気がして。
なんか……白けたんだ。

だから、すぐに止めた。



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健全な精神は、健全な肉体に宿る。
じゃあ、わたしの精神は健全か?

うーん、どうもそういうことじゃなかったみたい。

細っこくて見た目はひ弱だったけど、わたしは病気や怪我と
はまるっきり無縁だった。
肉体的には健全ということになるんだろう。

その代わり、わたしの精神はずっと不健全だった。
ものの考え方がひねくれていて、その上ちっとも堪え性がな
かったから。
腰を落ち着けて何かにしっかり取り組むっていうことが出来
なくて、いつも目先のものにぽんと飛びついては、すぐに飽
きて投げ出した。

その対象が勉強でも、仕事でも、オトコでもね。

さんざん親を嘆かせ、怒らせ、最後は放り出された。
おまえのしたいようにすりゃあいい。俺たちは知らん、と。

一番明るくて充実しているはずの二十代を崩れ果てた生活で
徒に浪費し、もう三十の声が聞こえる今になって、やっと小
さなスナックのママさんに落ち着いた。

そうしたのは、わたしが人生とはなんぞやを悟って改心した
からじゃない。
人生劇場の主人公を演じるにはあまりにお粗末な自分自身に、
どっと疲れたからだ。
ほんとは何もしないで、ずっとぐだぐだしていたいんだけど。
それじゃ生きていけないからね。

オトコ関係のごたごたにはもう関わりたくなかったから、愛
想のないママさんに徹することにした。
それでもいいって来るお客さんは、どうでもいいおっさんば
かりだ。

しょうもないわたしには、それが分相応なんだろう。



b1



そんなわたしのしょぼい店に、最近一人のおじさんがよく立
ち寄るようになった。

若い頃はすごくかっこよかったんだろう。
背が高くて、筋肉質。姿勢がとても良くて。
でも、そういうのがわざとらしく見えるほど、とにかく愚痴
が多かった。

職場の愚痴、家庭の愚痴、社会の愚痴……。
それをわたしに言われてもって思うけど、お客さんはお客さ
んだ。
わたしはふんふんと適当に相槌を打ちながら、ただ聞き流し
ていた。

そして、今日も。
一杯の水割りを苦そうにちびちび舐めながら、おじさんの愚
痴が始まった。

「なあ。みっちゃんは、徒手空拳ていうのを知ってるかい?」

「は? なんですかそれ?」

「なんにも持ってないってことさ。俺みたいなもんだ」

「へー」

何言ってんだか。
ほんとに何も持ってないなら、こんなところでお酒飲むお金
も時間もないはずだよ。

わたしの呆れ顔なんか見もせずに、おじさんの愚痴が続く。

「人は何も持たずに生まれてきて、何も持って行けずに逝く。
なんか……ばからしいよなあ」

「そうなんですか?」

「いくら努力しても、その甲斐がないってことじゃないか」

「うーん、その努力すらまともにしたことないんで、わたし
には分からないですぅ」

予想外の返しが来て驚いたんだろう。
おじさんは、しばらくグラスを見つめたまま黙っていたけど。
小さな苦笑いを浮かべて席を立った。

「ごちそうさん」

「ありがとうございましたー。またいらしてくださいねー」

そのおじさんと入れ替わるようにして、常連のすけべおやじ
どもがどやどやと入ってくるなり、テーブル席でエロ話を始
めた。

「ああ、みっちゃん! あんたも来いや! 飲もうぜ」

「こっち片付けてからー」

「ったくノリがわりぃよなあ」

「嫌われてんだよ、俺たち」

「ぎゃはははっ!」

分かってんじゃん。
さっきのおっさんも辛気臭くてやだけど、こいつら論外だ。
でも、論外だ出てけって客を選べないわたしが一番論外なん
だろう。


           -=*=-


店を閉めて、売上集計してる時。
ふと、さっきの徒手空拳ていう言葉を思い出した。

ことわざ系大っ嫌いなわたしが、なぜかおじさんが言ったそ
いつだけは覚えてたんだ。
わたしは、それを空手の技のことだと思ってたんだよね。

「何も持ってないこと……かあ」

あのおじさん。
ずーっと昔、しかもほんの数日しかいなかったわたしのこと
なんか最初から覚えてないだろう。
でも、わたしはしっかり覚えてる。彼はしんちゃん先生だ。

今でも空手を教えているのかどうか分からないけど。
でも、彼が空手を通して手にしたものは、彼の望んでいたも
のとは一致しなかったんだろう。

とめどなく吐き出される愚痴。
手に何かを持ってしまった者の悲哀。

わたしは、これだけ崩れ果てていても心のどこかで安心して
るの。
ああ、何も持っていなくてよかったなあと。
すぐに手放してしまって……よかったなと。



b2



「さて。この店もそろそろ閉めっかなあ」

何も得られず。でも、自分を棄てることも出来ず。
わたしは、またどこかにゆらゆらと流れていくんだろう。

徒手空拳のままで。




 かほりんさんのリクエスト。空手をお題にということでしたので、ちょっと苦めに料理しました。(^^;;





Drifting Girl by The James Gang