《ショートショート 0719》


『青天白日』 (白いおはなし 3)


「ううむ……困ったのう」

「はい……。どういたしましょうか、父上?」

「ううむ」

儂と息子の繋(けい)は、蒸し暑い執務室でだらだら汗を流
しながら呻吟を続けていた。

「ううむ……」



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今年の夏。
百年に一度あるかないかの大旱魃で、国内の田畑は水の確保
に四苦八苦していた。

旱魃の影響を受けているのはこの国だけではないので、こう
いう年は他国との揉め事が却って起こりにくい。
内政に専念出来る分だけ、儂の憂いは少なくなるはずじゃっ
たのに。
心無い噂が人心を騒がし、騒動にまで燃え広がろうとしてい
た。

雍(よう)の南端、遺狼関(いろうかん)の守将だった孫度
(そんたく)将軍が謀反を起こして関に立てこもり、王都か
ら差し向けられた鎮圧軍の前で自害したのは、もう何十年も
前、儂がまだ生まれる前の出来事じゃ。
儂は、父祖や師から史実として聞かされただけじゃ。

他国と通じていたわけではなく、暗愚な国主への義憤に基づ
く挙兵。
儂はそのように教わってきたが、実際のところなぜ将軍が突
如兵を挙げたのか分からぬというのが真相であろう。

孫度将軍の謀反以降、遺狼関を含む南詔(なんしょう)郡は
国の直轄地となり、守将は交代制となって郡の行政とは切り
離されている。

長きにわたって雍の内政を補佐している我が一族は、南詔郡
の統治制度策定を国主に任された。
儂の祖父が国主に現在の制度を奏上し、それが認められてか
ら今日に至るまで、南詔郡での不穏な噂は一切聞こえてこな
かったのだ。

それが……。

「なぜ何十年も経ってから、孫度将軍の幽霊話が突然出回る
のじゃ」

本当に頭が痛い。

不穏当な噂が飛び交うのは、戦の前兆(まえぶれ)じゃ。
兵を動かさずに済む諜報戦、情報戦が端緒になるからの。
だが、それとて儂にはどうにも解せぬ。

遺狼関が眼下に見下ろしているのは、隣国である寸の北辺。
寸の北辺も雍の南辺も、痩せた山地ばかりで耕地に乏しく、
生産性が低い。

しかも周囲に分け道の多い遺狼関は、先城としての意味はあっ
ても決して要衝ではない。
せいぜい斥候の置き場くらいなものだ。

わざわざ兵を寄せて関や南詔郡を攻め落とす意味はなかろう。

しかも、寸との関係はここしばらく極めて安定している。
国主同士に血縁関係はないものの、臣が頻繁に行き来し誼を
結んでいるので、そもそも揉め事の元がない。
なぜいきなり遺狼関がきな臭くなるのか、とんと見当が付か
ぬ。

「繋。捕らえた二人は口を割らぬのか?」

「はい。荒っぽい手段は使いたくないので、智者の澤元(た
くげん)和尚に説得に当たらせているのですが……」

「ふむ。その二人は学のない農民であろう?」

「さようでございます」

「それでは、智者には荷が重いかもな……」

「あ」

「それにしても、あやつらが頑ななまでに見たと触れ回るの
は……」

信じたくはないが、本当に?
儂と繋は、しばらくの間遺狼関周辺の地図に目を落としなが
ら黙りこくっていた。

不意に。
部屋の四隅に置かれた燈明の炎がゆらりと揺れて細り、部屋
が一瞬薄暗くなった。

「うん? なんじゃ?」

慌てて目を上げると、執務室の戸口に甲冑姿の武者が立って
いるのが見えた。
刀は帯びているが、その柄には手をかけていない。
武者の表情は穏やかであり、儂らに危害を加えようとする様
子は見られなかった。

繋は驚きのあまり気を失ってその場に倒れ伏したが、儂には
なんとなく予感があった。

「もしや、度どのでございましょうか?」

「さよう」

「何故に、然様なお姿で?」

「危急の用があっての。敢えて寄らせてもらった」

「用……でございますか?」

「そうじゃ。そちらが捕らえた二人。あやつらは正直者じゃ。
何も嘘は吐いておらぬ。帰してやってくれ」

「かしこまりました。ですが……」

「なんじゃ」

「将軍は、何故今になって姿をお見せになったのですか?」

「まあな。儂はゆっくり物見遊山していたかったのじゃが、
此度はそうも行かぬでの」

「国を揺るがすような、深刻な謀(はかりごと)が潜んでお
りましょうか?」

「違う。お主らも代々の重臣ならば国内を必ず巡視せよ。何
も見えておらぬな」

「……」

その苦言は、ひどく耳が痛かった。

「儂も関の将になって初めて見えたことがある。じゃから、
お主の祖父や父が守将を交代制にしたのは、将の見識や思慮
を深める上でとてもよいことであろう」

「ははっ」

「じゃが、その真意を政(まつりごと)を司るお主らが汲め
ておらぬのでは、意味がなかろうが」

がしゃん。
将軍の甲冑が揺れて、大きな音を立てた。

「よいか? お主らは、臣民の多い王都の政を最優先に考え
るが、その王都の食(じき)を支えておるのは邑々(むらむ
ら)じゃ。人の数のみを見て政を動かせば、人の少ない邑は
潰れてしまう。特に……」

将軍が、さっと天を指差した。

「こういう荒天の年にはな」

あっ!

儂は、床で気絶していた繋の頬を引っ叩いて正気に戻すと、
大声でがなった。

「繋! 一刻の猶予もないっ! 南詔郡全域、このままでは
水が完全に涸れて全滅じゃ! 関と吏府には備蓄があるゆえ、
渇水の深刻さが分かっておらぬ! 南詔郡の太守は一体何を
しておるのじゃっ! すぐに呼び付けて被害状況を上奏させ
よっ!」

「は、は、はははいいいいっ!」

幽霊の将軍より、儂の剣幕の方が恐ろしかったのであろう。
真っ青になった繋が、脱兎の如く部屋を飛び出していった。

「かたじけない。生身の我らが先に気付かねばならぬところ
を……」

「いやいや。まだ間に合うでの」

「将軍が兵を挙げられた時も、斯様だったのでありましょう
か?」

将軍は、わずかに微笑んで首を横に振った。

「水は、あればある、なければないと分かる」

「はい」

「じゃが、思惑は誰の目にも見えぬ。今の儂のようなものじゃ
な。あってなきが如し」

「……」

「青天白日と言うが、実のところ儂は何一つ疑う余地のない
白日の下にはおられぬ。それで……勘弁してくれ」

「本当にそれでよろしいのですか?」

「良いも悪いもない」

儂に背を向けた将軍が、ぽそりと言い残した。

「儂は、水があってももう飲めぬ。それだけが紛れもなく真
実じゃ」

そして……消えた。


           -=*=-


儂は、慌てて上洛してきた南詔郡太守張角と遺狼関守将威于
全を並べて、国主の前で激しくどやし付けた。

「お主らは、己のことしか考えておらぬのかっ!」

本来であればその怠慢は到底許し難く、地位官職全て剥奪し
て投獄するところだが、儂もすべからく同罪じゃ。
処分よりも、水の手当てを急がねばならぬ。

二人には、涸れ谷の底に深井戸を掘ること、そして西の隣国
である崔(さい)に貢納し、急ぎ水利を買い取る交渉をする
よう命じた。

我が国と崔との関係は必ずしも良くないが、こういう危急の
時に恭順の姿勢を示すことで、災いを福に転じることが出来
るかもしれぬ。
二人にはもう後がない。悲壮な覚悟で工事と交渉に臨んでく
れるだろう。

捕らえていた農民二人には膝を折って直々に謝罪し、補償金
を与えて郷に送り返した。
それでもなお彼らが将軍を度々見かけるようであれば……。



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「ふう……」

儂は、ぎらぎらと容赦無く照りつける白日を睨み付けた。

「儂が、直々に遺狼関に行かねばならぬ……な」





Dry Land by Joan Armatrading