$いまじなりぃ*ふぁーむ-tle



 昔々1  第四話 転機


(2)


目をぱんぱんに腫らした所長が、しゃがみ込んでいた床から
ゆらっと立ち上がった。

「ユ……ルセ……ナイ」

喉からちぎり取るようにして怨嗟の言葉を吐き出した所長は、
怒りではなく、薄笑いを顔に浮かべた。

悪魔の誕生を目の当たりにして。俺は、ぞっと……した。

怨恨。
それがどんなきっかけで生まれ、膨らみ、人の行動を支配す
るようになるのかがリアルに分かる。

俺だって、犯人は許せない。絶対に許せない!
でも、犯人を追い詰め、逮捕し、裁くのは俺たちの仕事じゃ
ない。それは……江畑さんを初めとする警察や司法の領分だ。

所長の激烈な憤怒を感じ取った江畑さんは、俺と同じ懸念を
したんだろう。
所長を落ち着かせるように、上手に話を丸めた。

「捜査の進捗状況は逐次お知らせします。どうか落ち着いて
捜査にご協力ください」

それから所長に近付き、肩を抱いた。

「沖竹さん。弔合戦は私どもの仕事です。私怨はいけない。
それはあなただけでなく、誰の何の役にも立たない」

「……」

「沖竹さんは、ブンさんの大事な忘れ形見だ。ブンさんの遺
志を継いで、どうかいい仕事をなさってください」

そう言って、所長の肩をががっと揺すった。

ああ、江畑さんもブンさんと同じだ。熱い。そして、心根が
暖かい。
ちゃんと人の心に寄り添い、俺らを思い遣ってくれる。

所長を慰める江畑さんの姿を見て、俺はブンさんの説教を思
い出した。

くすむな……染まって黒くなるな、か。
それなら、俺のしなければならないことは……。

「所長」

激情を抑えきれずにぶるぶる震えていた所長が、目の端だけ
で俺を見た。

「俺は……ブンさんの足取りを追います」

江畑さんが眉をひそめた。
警察の領域に余計な手出しをするな。
江畑さんの視線には、暗にそういう牽制が混じっていたと思
う。

俺は手を振って、江畑さんの懸念を打ち消した。

「いえ、江畑さん。俺は犯人探しをするつもりはないです。
それは警察の仕事です」

「ええ」

「俺が追うブンさんの足取りは、ブンさんのこれまでの生き
方です。ブンさんがなぜ刑事になったのか。刑事としてどう
いう仕事をされてきたのか。そして……なぜここに来て、こ
こで何をしてきたのか」

江畑さんが、ほっとしたように表情を緩めた。

「俺や所長がブンさんの遺志を継ぐなら。そもそもブンさん
がどういうポリシーで生きてきたのか、その生き様を探らな
いとならないでしょう?」

「うん。そうしてくれると私も嬉しいな」

退職者とはいえ、かつての辣腕刑事の非業の死を警察が軽視
するはずがない。
弔合戦として、威信をかけて短期解決を目指すだろう。
だから俺は、そっちには一切関わらない。

どんなに犯人を追い詰めたところで、ブンさんが生き返るこ
とはないんだ。
それよりも、俺はブンさんを自分の中に刻み込まないとなら
ない。生涯消えないように、くっきりと刻み込まないと……
ならない。

まだ怒りと悲しみをコントロール出来ない所長は、立ち尽く
したまま何度か激しくしゃくりあげていた。


           -=*=-


所長の気持ちが落ち着くのを待って、江畑さんが俺と所長の
事情聴取を始めた。
ブンさんが退社するまでの数日間の言動、行動、交わした会
話について事細かに聞かれた。

表面上は所長とブンさんが不仲に見えていたことから、社内
でも所長の陰謀を疑う声が上がったようで、江畑さんは立場
上その線を潰す必要があったということだろう。

江畑さんは、ブンさんがずっと所長のバックアップをしてい
たことをよく知っていたようで、もし所長がブンさんに手を
出すなら、ブンさんの辞意表明に所長が激昂するパターンし
かありえないと読んでいた。

そして、相変わらず所長室を一歩たりとも出ない所長と、退
職後は一度も社屋に来ていないブンさんの間に、事件発生ま
で全く物理的接点がなかったことは明らかだった。

所長は完全にシロということだ。

俺が疑われたのは、俺が沖竹の社員の中で最後にブンさんと
顔を合わせていたからだ。
そう、薮田での飲みだ。

だが俺とブンさんの最後の接点は、俺がブンさんから説教を
食らった金曜の夜。ブンさんの死亡推定時刻である日曜の夜
は、俺はアパートで完オチしていた。
翌土曜日から日曜の昼過ぎまで、ブンさんが辞めた後の業務
執行体制作りのことで所長にぶっ通し拘束されていて、くっ
たくたに疲れていたからだ。

アリバイを示せと言われても、部屋でぐうぐう寝ていた俺に
そんなものはなかったが、それ以上に俺がブンさんに手を出
す理由が何もない。

江畑さんも、俺への聴取は早々に切り上げた。

そして所長と俺以外には、ブンさんと濃い接点を持つ社員が
いない。みんなに煙たがられていたブンさんを扱えるのは、
俺と所長だけだったんだ。
誰にも動機がなく、全社員それぞれにアリバイがあった。

つまり、ブンさん殺しの動機が怨恨だとすれば、その怨恨は
『今の』ではなく、『過去の』であるという可能性が高い。

俺がブンさんの過去を調べると言った中には、刑事時代以前
に特定人物との確執がなかったかを洗っておく意味もあった。

江畑さんの事情聴取が終わってすぐ、俺たちはそれぞれ行動
を起こした。
俺は休暇を取って調査に動くつもりだったが、所長が社命に
した。

「その代わり、私に調査報告書を提出して欲しい」

「業務ということですね?」

「そうだ」

「分かりました!」

俺は、ブンさんの過ごしてきた年月をざぶざぶ泳いで遡るこ
とにした。
所長は……警察の捜査の邪魔をするなと言われたことにあえ
て逆らって、独自捜査に乗り出すらしい。

本当は、捜査妨害になるから止めろって諌めなければならな
いんだろう。
でも、きっかけがネガティブではあっても、所長室に篭りき
りだった所長が自分の足で推理の材料を集める気になったん
だ。俺は、それをどうしても止めたくなかった。




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If I Could by New Heights