《ショートショート 0711》


『桃源郷』


「メイシーさん、こんにちは」

「さんは要らないよー。メイシーでいい」

「だって、ガイドをされてるんですよね?」

「最初だけね。あとはあなたと全く同じだもの」

同じ……か。
わたしは今、よく絵本なんかに描かれている妖精と全く同じ
姿をしている。
そこかしこに咲き誇る花と同じくらいのサイズ。
背中に羽を備え、軽やかに飛び回ることが出来る。

羽があることを除けば、見かけは人間と何も変わらない。
でも、わたしはここでは食べたり飲んだりする必要がない。
眠る必要も、勉強したり、働いたりする必要もない。

桃源郷。
咲き誇る花と、飛び回る妖精たちだけで出来ている。
そして、今わたしはその一部になっている。



av1
(アベリア)



わたしがよく夕日を見に行く河原。
その日没寸前に、ほんの数分だけ川面に扉が現れることに気
付いたのは、全くの偶然だったと思う。

わたしは最初それを、幻だと思っていた。
単なる幻想で、実体のないものだと思っていたんだ。
でも透明な扉の向こうの世界がとても美しいことに見惚れて、
一度でいいから向こうに行ってみたいと思うようになった。

まあ、普通は思うよね。
そんなの無理だって。

だめもとで、わたしはその扉に向かって歩いてみたんだ。
足を洗う川水の冷たさで我に返って、それで終わりだろうと
思いながらも。

でも、まるで川面がガラスか何かで出来ているかのように、
わたしの足は水に浸かることなく扉までわたしを運んだ。

扉の前で、わたしは逡巡した。

わたしは、今居る世界が嫌いなわけじゃない。
こっちから向こうへ逃げるつもりもない。
わたしのは、単に美しい世界への憧憬と興味だけなんだ。

向こうに行けるのはいいけど、二度と戻れなくなったら……。

川縁にぎりぎりしがみついていた夕日がほとんど光を失った
時、扉は消え失せ、わたしはいつの間にか河原に戻っていた。
勇気が出せなかったことにがっかりしながら、わたしは家路
を急いだ。

だけど、わたしがその扉を見たのは一回や二回じゃない。
きっとまたチャンスが来るだろう。
今度は迷わず向こうに飛び込んでみようって、そう決めた。
そして、次のチャンスはあっけなく訪れた。


           -=*=-


わたしが覚悟を決め、扉を開けてその向こうに飛び込んだ途
端に、わたしの姿は妖精のそれになっていた。
そして、わたしの側にすぐやってきたのがメイシーさんだっ
たんだ。

「ようこそ、ここへ」

「あの……あなたは?」

「ガイドのメイシーです。あなたは、ここではミレアと呼ば
れます。自分の名前を覚えてね」

ミレア……か。

ガイドがいるっていうこと。
それは、わたし以外にもここに来る新入りがいるってことな
んだろう。

「あの……一つ聞いていいですか?」

「いいわよ。ここは無憂の桃源郷です。これをしちゃいけな
いとか、これを聞いちゃいけないとか、そういう憂いをもた
らすようなタブーは何一つないわ」

「わたしは……もう向こうに帰れないんでしょうか?」

わたしの質問に、メイシーさんが即答した。

「帰れないことは、あなたにとっての憂いになる。桃源郷に
そんなタブーがあるわけないじゃない」

ええっ!?

メイシーさんにとんと背中を押されて、わたしは入ってきた
扉から後ろ向きに出た。
その途端。

……暗くなりかけていた河原にぼんやりと立っていた。

「ど、どういう……こと?」

わたしは自分のほっぺたをつねりながら、真っ暗になってし
まった河原から慌てて逃げ帰った。


           -=*=-


それから。
わたしは何度か、河原と妖精界の間を往復することになった。

ここと向こう。
何もかもが違っていた。

メイシーさんが口癖のように言う『無憂』っていうコトバ。
それが妖精界……いや桃源郷の全てを決めているらしい。

楽しいという概念は、楽しくないという対立概念を併せ持っ
てる。
楽しさを追求する限り、それが叶わないことで憂いを生む。
だから、桃源郷には楽しいとか嬉しいという感情は存在しな
い。そこに在るがまま。

逆に、辛いとか、苦しい、悲しいっていうのはそのまま憂い
だから、ここで妖精になればそれらは全て消え去る。
でも、その対価は幸福とか悦楽ではないのよ。分かるでしょ?
メイシーさんは、それを繰り返し口にした。

そして、妖精には寿命という概念がない。
そりゃそうよね。自分の命脈が尽きるってことが大きな憂い
なんだもの。
じゃあ、妖精は未来永劫存在し続けるのか?

「ここがある限り」

メイシーさんは、そう言った。

わたしたちに生死の概念がなくても、世界の発生と消滅はあ
る。でも、世界の消滅が明日なのか一兆年後かを考えたっ
て、何も意味がない。
わたしたちは、『桃源郷が在る限り』永遠に存在し続ける。
だから、そこに憂いは生じない。

メイシーさんとの会話を通して、だんだん桃源郷の全体像が
見えてきた。
だけど……。

「ねえ、メイシーさん」

「メイシーでいいってば。なに?」

「わたしはここと向こうを何度も往復してるけど、いつまで
もそう出来るんですか?」

「あなたがそうしたければ。でも事実として、ほとんどの妖
精は、ここに留まることにするか向こうに帰るかを選択する
わね」

「それって……期限があるんですか?」

「ないよ。時に急かされるのは憂いだから」

「あ、そうかあ……」

「でも、事実として、そうなるの」

メイシーさんが、扉をじっと見つめる。

「あの、メイシーさんはずっとこっちにいるんですか?」

「……」

なんでもすぐに答えてくれるメイシーさんが、その時だけは
黙りこくって、わたしの質問に答えてくれなかった。



av2
(ネジバナ)



桃源郷。
どこまでも美しい『無憂』の世界。

でも、わたしはそこを去ることにした。
わたしは今いる世界が嫌で、向こうに行ったわけじゃない。
桃源郷を体験出来るチャンスがあっただけ。
桃源郷が美しいなあと思ったからなんだ。

だけど憂いのない世界は、結局『わたし』っていう存在を許
してくれない。
わたしが自分の意思を表せば。それを貫き通せば。
それは、自分か誰かの憂いになるんだもの。

だから桃源郷では、妖精が意思や感情を持たない。
容姿は人間と同じでも、中身は花なんだ。

今わたしの目の前で軽やかに花から花へと飛び回っている妖
精たち。彼らはきっと。
自分を失ってでも、深い深い憂いを捨て去りたいと熱望して
いた人たちなんだろう。

わたしは、その選択が間違っているとは言えない。
でも、わたしには桃源郷は……要らないかな。

それをそのままメイシーさんに伝えて。
名残惜しいけど、桃源郷を後にした。
扉の前で振り返って、メイシーさんに手を振る。

「メイシー、またね」

さよなら、ではなく。
ずっと親切にしてくれたメイシーさんへの、精一杯のお礼と
メッセージのつもりで。



av3
(ムラサキツユクサ)



わたしが河原に通わなくなってしばらくして、クラスに転校
生が来た。

噂がいっぱい流れてた。
前の高校でひどいイジメに遭って、自殺未遂を起こした子だっ
て。
人が信じられなくなって、復学するのはすっごい苦痛だった
んじゃないかなと思う。

まだ痛々しい手首の包帯。でも、それを隠すことなく。
すっと顔を上げた彼女は、しっかりした声で自己紹介した。

「前原……明(めい)です。仲良くしてください」

そして、彼女の視線がわたしに注がれる。
先生がわたしの隣の席を指差した。

「前原さん。席は芳賀美亜さんの隣ね。芳賀さん、しばらく
前原さんの面倒を見てあげてね」

「はあい」

ああ、そうか。
彼女も。メイシーも。桃源郷を出ることにしたんだね……。


           -=*=-


校庭の隅っこ。
大樹の木陰に腰を下ろして、二人でお弁当を食べる。

「ねえ、メイシー」

「なあに、ミレア?」

「最後に聞きそびれたことがあったの」

「なんだろ?」

「憂いがないってことへの憂いは……あそこでどうやって解
消するの? それって、自己矛盾じゃん」

「あはは……」

メイシーは、ゆっくり微笑んだ。

「そんなあなたが来たから、わたしはここに戻る気になった
の。わたしにとっては……」

「うん」

「あなたが居る、こここそが桃源郷よ」

うわっ!
て、照れるわーっ。





 オモロ月さんからお題を頂戴しました。(^^)
 『桃源郷』でファンタジーを。

 わたしは直球を投げませんので、こんなところで。はい。(^^;;






Fairy Dance by James Newton Howard