こんばんは。
ここのところ矢鱈と肌寒い日が続きましたが、ようやく春めいた陽気が顔をのぞかせてきましたね。本当ようやくって感じです。
よく一番好きな季節は?と尋ねられた際、一応自分の生まれた季節だし、何とは無しに感ぜられる静けさみたいなものも好きだし、「まあ…冬?」と答えてはいたのですが、実際のところ、冬になると自室にいても吐く息が白かったり、指がかじかんで何も手につかず、毛布にくるまっていないとままならない、しかし一度くるまったが最後、温まった両手をもうわざわざ外に出す気にもなれず、気がつけばおやすみなさいのかけ声と共に夢の世界へフライトしてしまうのは如何ともし難い。
そうこうしているうちに春が訪れ、いやいや寝てばかりいてはいかん、外も暖かくなってきたことだしな…と自身に鞭打つも、春眠暁を何とやら、やはり惰眠をむさぼるであろうことは容易に想像できる。
つまりは、ようやく春が来たと時の移ろいをありがたがってはみたところで、自身の本質を改善しない限り実際は何も変わらないということですね。
『精神的に向上心のない者はばかだ』ってやつ?
これは大晦日、一年を締めくくるにあたって突発的に内から込み上げるプチ懺悔のようなものにも言えますね。
季節が、年が、年号が変わったって現実は地続きなわけです。
などと初っ端から自戒を述べさせていただきましたが、じゃあお前はその向上心とやらを胸に一分一秒を有意義なものにする努力を怠っていないのだろうね?とお聞きになることかと思います。
春めいた今日、梅津はというと殺陣稽古の後、することもなかったので東京をぶらぶらしていました。
ほれみたことか、散々偉そうにのたまいながらあてもなくフラフラしてんじゃないよ!とのご指摘がすかさず飛んでくることでしょう。
弁解の言葉もありません。
でもね、普段、出不精気味のこの僕が、代官山からフラフラフラフラと渋谷や六本木を抜けて、溜池山王まで旅をするってのは、これはなかなか気合い入ってのことなんです。ホント。
木刀背負って、小洒落たピザ屋を尻目に、押し寄せる人波を抜け、散見されるウッド率の高い家具屋を覗くでもなく、陽が落ちてちょっといい感じのテラスで珈琲を啜るでもなく、ただひたすらに歩く、歩く。
ふとヒルズ一帯のビルの隙間から東京タワーが覗いたりして、先日後輩達と東京タワーに登ったばかりの僕としては何だか東京って街は思い出が近くていいなぁ、なんてぼんやりと思ったりする。
「ああ、あそこに東京タワーが見えるってことはむこうの方角にあいつと行った喫茶店があるなぁ…」とか「じゃあ先日お花見した公園はあっちかなぁ…」とか手が届きそうなところに紐付けされてる感じが。
そしてそれはどこまでも歩いていけそうな気にさせてくれるし、実際歩けてしまうのだから楽しい。
思い出という言葉が想起させるのは、どうしても遠い昔に出会った人だったり景色だったりしがちだけれど、昨日今日の出来事だって思い出になり得るわけだし、何ならその風化しつつある在りし日の記憶も「今日」の出来事だったわけで。
まあ何が言いたいのかというと、あの時、あの場所もやはりここと地続きだということ。当たり前のことだけれどね。
閑話休題。
で、旅の果てに辿り着いた溜池山王。
どうせここまで来たのだからと足を運んだのは音に聞く桜坂。
今更わざわざ桜坂?と思われるかもしれないが、何を隠そう行ったことがなかったのだ。
曲名になったりするぐらいだし、デートスポットとしても有名だ。さぞや美しい桜並木が見られることだろう…!と期待に胸を膨らませ向かったところ、まあ、見事に散ってた。
葉桜と成り果てた並木連なるそこは桜坂というか、もう坂。
もしかしたら…と淡い期待で多少登ってみたものの、果たしてその大半は地面に巻き散らかされた後であった。
そりゃあそうだよね。雨にも負けず、風にも負けず、踏ん張っていてくれるんじゃないかと期待してしまうのは人間本位のエゴだった。それともよく見たらまだ咲いていたのかなぁ。目悪いからなぁ。
さて、そうなるとあたりは暗いしお腹は空くしで何やら心細く、坂の勾配も地味にきつく感じてくる。途端に足は重くなり、虚無感が津波のように押し寄せてくるのでした。
計画性もなく手近な達成感を得ようと思ったのが間違い。見事に肩透かしを食らい、とぼとぼと駅に戻る道すがらコンビニでおにぎりを買って食べました。
銀シャリ、凄く美味しかった。
うーん、これも良い思い出。
(余談ですが、東京タワーのお土産にTシャツを買ったので早速着て出かけました。殺陣の先生に「それ外国の人が買ってるやつじゃん」と笑われました。I ♡NYが許されるなら、これも許してほしいです)