同じ苦しみが何度も起こるのはなぜ?

ゆう:カルマが戻ってくるのは、それに耐えられる状態になっているからだよね? でも、失敗したり、先送りしたり、逃げたりした場合、どうなるの?
 
Shin:何度でもチャレンジできるみたいだよ。
 
ゆう:また同じような現象が起こるの?
 
Shin:そうだね、同じようなきつい現象が起こるよ。
 
ゆう:よく同じ失敗を繰り返す人がいるじゃん。そういう人も、チャレンジに失敗したということ?
 
Shin:失敗といっても、完全な失敗ではなくて、何かを掴んで成長しているものだよ。でも、それだけでは足りないから、また同じような現象を引き起こして、さらに学ぶ必要があるということかな。
 
ゆう:同じようなことが起こっても、もっと状況がひどくなる場合があるよね?
 
Shin:カルマが戻ってきたときに、必要以上にやり返したりしたら、さらにカルマを重ねることになってしまう。
 
ゆう:カルマを重ねる?
 
Shin:たとえば、君が誰かを殴ったとする。するとその行為が戻ってきて、誰かに殴られる。そこで君が反省して、殴るのをやめれば、カルマの法則の連鎖が終わる。ところが君が、さらに相手を殴ると、カルマの法則が続いてしまう。
 
ゆう:でも、我慢するのは違うような。
 
Shin:我慢ということではなくて、忍耐をして学ぶということかな。我慢というと消極的な感じがする。そうではなくて、積極的な意味で、その現象からしっかり学んで、それ以上の報復をしないということ。
 
ゆう:普通は、やり返したくなるよね。
 
Shin:冷静に対処することと、感情的になって報復することとは違うから。いずれにせよ、人にしたことは戻ってくるようになっている。
 
ゆう:でも、全然学ぼうとしない人たちも多いじゃん。その場合、同じような現象がずっと起こるの?
 
Shin:成長しないと、その状況から抜け脱け出せないかも。たとえば、ケイシーの事例で、多発性強皮症だと医師に診断された34歳の電気技師がいる。目がかすんで読み書きができなくなり、歩こうとすると転んでしまう。ケイシーは、治療法とともに、憎しみや敵意を心の中から完全に取り除くようにアドバイスした。彼はケイシーの治療法を行い、四ヶ月間は体も回復していったけど、その後また不調になった。そこで一年後に再びケイシーにアドバイスを求めた。
 
ゆう:良くなりかけたのに、また悪化したの?
 
Shin:そう、病気の状態から抜け出せそうだったのに、また元に戻った。ケイシーは言った。「そうだ、このからだは前にも見たことがある。なるほど、からだの中の肉体的な面はだんだん回復してきた。しかし、まだまだしなければならないことがある。前にも言ったように、これはカルマからきたものである。隣人や物ごとに対する本人の心の態度を変えなくてはだめだ。機械的な手段を肉体面の矯正に用いたかぎりでは、回復は現れている。しかし本人があまりに自己満足し、あまりに自己中心的で、霊的なことを拒否してその態度を改めないならば、また憎しみや敵意や不正や嫉妬があるかぎり、忍耐や、辛抱や、隣人愛や、親切や、やさしさと矛盾するなにかが心の中にあるかぎり、肉体の治癒は望めない」。
 
ゆう:いくら治療法をしても、心の問題を変えないと体も治らないのかぁ。
 
Shin:そうだね。忍耐や優しさを伸ばさないと、病気も改善しないのかもしれない。ケイシーは続けて言った。「この人は何のために病気を治したいのか。自分の肉欲を満足させるためか、ますます利己的になるためか。もしそうならば今のまま治らぬほうがよい。もし心の持ち方や目的が変わり、口にも行いにも変化を表すならば、そしてその上で指示した物理療法を行うならば本当に良くなるだろう。だが、まず心と精神と目的と意図とを変えなくてはならない。あなたの目的とあなたの霊魂が聖霊の洗礼を受け入れないならば、どんな機械的療法を用いようとも完全な回復は望めないだろう。この勧告を受け入れるか拒絶するか、それはあなたの心次第だ。あなたが償いをしないならばリーディングをしても無意味である。これで終わる」。
 
ゆう:病気が治ってもさらに利己的になるくらいなら、治らないほうがいいと言ってるね。
 
Shin:この人の場合は、精神的な未熟さが、病気の根源的な原因になっているということなのかな。これは、ケースバイケースだと思うけどね。別の言い方をすれば、病気はメッセージのようなもので、心の持ち方や生き方を変えてください、ということなのかも。
 
ゆう:病気は、心に問題があるということ?
 
Shin:人によって違うと思うよ。心を成長させるために病気になる人もいるだろうし、周囲の人の成長のために病気を背負う人もいるかもしれない。たとえば、子供が病気になる場合は、子供自身よりも親が成長しなければならないことがある。
 
ゆう:でも、霊魂とか聖霊とか、なんか宗教っぽいね。
 
Shin:ケイシーは熱心なクリスチャンだったから、どうしてもキリスト教の概念でメッセージを伝えるんだよね。でも、宗教とは違うよ。そもそもキリスト教は生まれ変わりを否定しているからね。だからこそケイシーは、自分のリーディングにずっと悩んでいた。
 
ゆう:催眠で眠っている状態でしゃべるから、自分では何を言っているのかわからないんだよね?
 
Shin:そう、ケイシー自身は、リーディングの内容には関わっていない。でも、ケイシーを通して伝えられるメッセージが、科学的にも非常に高度なもので、具体的な治療法など医学的な知識も豊富に含まれていて、透視能力も群を抜いていたということで、今でも信頼されているということかな。

病気が自分を成長させる

ゆう:確かに、病気がその人の心を成長させるというのは、わかるような気がする。
 
Shin:一般的には、病気は悪いもので、排除すべきものだよね。でも、一つ上の視点から見れば、病気によって、その人の人間性が高められるという側面もある。そういう意味では、病気を治すことも重要だけど、病気が自分の未熟な部分を治しているとも言える。主客が逆転するんだよ。
 
ゆう:病気が自分の未熟な部分を治す?
 
Shin:そう、カルマの法則を知ると、病気やトラブルが悪であるという視点からは違う視点で物事を見ることができる。悪を悪だと認識すると、悪でしかなくなる。でも、悪が善かもしれないと思うと、悪が善に変わる可能性が生まれる。そういう柔軟な発想が大切だよ。
 
ゆう:もしそうなら、病気は、僕たちにとって意味があるということ?
 
Shin:少なくとも、これまでの僕たちには必要だったのかもしれない。でも、僕たちが反省して、成長するようになれば、病気という手段を使わなくても、成長できるようになるよね。
 
ゆう:じゃあ、反省して成長できる人は、病気になる必要がないということ?
 
Shin:人によって違うと思うけど、病気によって自分を成長させようと、その人の本質が思っているケースでは、そうなるかもしれない。日々反省して、成長し続ける人は、外部からの強制力を使う必要がなくなる。病気やトラブルが、外部から自分を成長させるために必要なものであるなら、自ら積極的に成長し続ける人にとっては、そのような強制力は必要なくなるから、病気やトラブルも解消してしまうかもしれない。
 
ゆう:その方がいいじゃん。
 
Shin:いや、それができるなら苦労しないよ。自ら反省して、成長し続けるなんて、ほとんどの人にはできないよ。自分の至らない点から少しでも目を逸らして、人のせいにして生きている人がほとんどなのに。全てを自分の責任として捉えて、反省して、人のせいにしない人なんて、この世にどれだけいると思う?
 
ゆう:確かに、そんな人がいたら聖人だね。
 
Shin:病気やトラブルは、まだ僕たちに必要だということ。必要なくなれば、消えると思うよ。でも、病気やトラブルを悪だと認識して排除するだけで、自分の心の成長をおろそかにしていると、いつまでたっても病気やトラブルは無くならない。
 
ゆう:病気を治すには、心の成長も不可欠だということだね。
 
Shin:病気の人が、心が未熟だということではないよ。むしろ、心がすごく成熟しているけど、さらに成長を求めて病気を利用している可能性もある。それはその人の本質が、どういう意図を持っているかによって変わると思う。だから一概に、病気やトラブルに見舞われる人が、心に問題があると言っているわけではない。人それぞれの課題があって、最適な方法で自分を成長させていくから。
 
ゆう:その人の本質が意図を持っている?
 
Shin:僕は、そういう風に捉えているけどね。本質は全てを分かっていて、現象を起こしている。いつどんな病気になって、どういうトラブルを味わって、自分をどう成長させていくのかということを、ある程度計画して生まれてくるんだと僕は思うよ。前世退行催眠では、そういう事例がたくさんあるから。
 
ゆう:でも、病気やトラブルは、偶然起こるようにしか思えないよね?
 
Shin:ある抽象度において偶然だと認識しても、一つ上の抽象度では必然かもしれない。たとえば、天気なんて、古い時代には、偶然雨が降ったり、雪が降ったりしていると思われていた。でも、今は低気圧や高気圧の動きが予測できるから、そこに必然性があることがわかった。一つ上の抽象度に法則性が存在するかもしれない。その法則性を探求していくことが科学だよね。本当に偶然なら、抽象度が変わっても偶然でなければならない。でも、全ての抽象度において偶然であるということを科学的に証明することなんて不可能。だから、偶然であると決めつけることは、非科学的なことなんだよ。
 
ゆう:へぇー、偶然の方が科学的なのかと思っていた。
 
Shin:科学というのは、法則性を見出そうとすることだから、偶然というのは、思考停止しているだけ。わからないことは、わからないままにして探求していかないと、新しい発見は生まれない。わからないことをわからないままにして、それを維持し続けるということが、人間には難しいんだよ。忍耐力が必要だから。
 
ゆう:でも、探求し続けることは楽しいよね。
 
Shin:そう、わからないことをわからないままにして、探求し続ける喜びを感じることができれば、安易に結論づけて、思考停止することを避けることができる。人間は、真実を求める存在だから、間違った情報だけで結論づけても、すっきりしないんだよ。何か心にずっと引っかかって、不安感が消えない。そういう不安感をごまかさないようにして、探求し続けることが大切だと思っている。

カルマの法則を超える

ゆう:ケイシーは、隣人愛とか説いてるけど、そういうことが心の成長につながるの?
 
Shin:少なくともケイシーは、そう言ってるね。隣人愛や優しさや忍耐。忍耐というのが、ケイシー特有の教えなんだよね。これは西洋人だからかも。日本人は、忍耐力は比較的強いし、むしろ我慢しすぎて自分が潰れてしまう人も多い。
 
ゆう:最近は、そうでもないかも。
 
Shin:ケイシーのいう忍耐というのは、我慢とは違うんだよね。もっと積極的な意味で使っている。
 
ゆう:でも、忍耐は難しいよね。
 
Shin:たとえば、目の見えない人にこう言っている。「これは大部分カルマに原因を持つ症状である。人間関係に霊的理想をよりよく応用するならば、この人の人生経験は、非常に違ったものになるだろう。初めは視力にはあまり大した変化はないかもしれないが、内的自己に順応性が獲得されるならば、肉体面も良くなるであろう。脊椎の異常も、口や歯茎の異常と同様、目と関係がある。まず霊の果実をあらわし、キリスト意識を毎日の経験に応用するよう努力すべきである。つまり、隣人愛と親切と忍耐と、辛抱とやさしさを実行することである」。
 
ゆう:霊的理想とか、霊の果実とか、キリスト意識とか、よくわかんない。
 
Shin:ケイシーのいう霊的理想というのは、物質的な目標ではなくて、心の領域での目標。成功や夢の実現ではなく、愛や優しさ。霊の果実も同じ意味だよ。キリスト意識も、そういう愛や忍耐を実践する意識ということかな。
 
ゆう:いい人になれってこと?
 
Shin:いい人といっても、普通は表面的で浅いよね。そうではなくて、もっと深い意味で、愛や優しさや忍耐を実践するということ。表面的にいい人になるということではなくて、人格の奥深くまでそれが浸透しているということかな。そうじゃないと、本当の意味での成長にはならないよね。
 
ゆう:そういう本質的な成長ができるようになったら、カルマの法則の影響も受けなくなるの?
 
Shin:ケイシーは、脊椎カリエスの人にこう言っている。「忘れてはならない。この症状の原因はあなた自身の罪の償いのためである。これはカルマから来たものである。この償いを果たすにもっとも良い方法は、法則を成就することによって因果の法則を取り去り、かくて恩寵の法則を打ちたてた主を信じることである。この人がなすべきことは、法則であり、真理であり、光であるあの方の腕にすがることである」。
 
ゆう:因果の法則っていうのは、カルマの法則のこと?
 
Shin:そう、カルマの法則を取り去り、恩寵の法則を打ち立てるということらしい。
 
ゆう:恩寵の法則ってなに?
 
Shin:日々、反省と成長をしていくということかな。
 
ゆう:あの方って誰?
 
Shin:ケイシーはキリスト教徒だから、キリストのことだと思うよ。
 
ゆう:僕は、キリスト教は興味ないからなぁ。
 
Shin:ケイシーの場合は、通常のキリスト教ではなくて、もっと普遍的な意味で言っていると思う。
 
ゆう:罪の償いというのも、ちょっと嫌な感じだよ。
 
Shin:僕は、カルマの法則は、罪と罰ではないと思うんだけどね。ケイシーは、キリスト教の文脈で説明することが多いから、こういう表現になるんだと思う。僕は、物理学の法則と同じようなものだと考えているよ。「与えたものを受け取る」という、ただそれだけのことだと思うよ。
 
続く
 
 
参考文献
ジナ・サーミナラ(2012)『改訂新訳 転生の秘密』たま出版.